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→‎民間の政治団体・一進会の上奏声明: 一進会の上奏声明は韓国併合に関しては特筆性がありません。韓国併合は一進会に関係なく日本政府の閣議決定により決定されております。
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[[1909年]](明治42年)7月6日、[[桂内閣]]は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
 
=== 伊藤博文の暗殺 ===
[[1909年]] (明治42年)[[10月26日]]、[[日本]]の枢密院議長[[伊藤博文]]はロシア蔵相[[ウラジーミル・ココツェフ]]と日露関係の調整をするために渡航し、[[ロシア帝国]]が清から[[租借地]]としていた[[ハルビン駅]]で朝鮮民族主義者の[[安重根]]に暗殺された。この事件の影響により、欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であるロシアは、ロシア領内で発生した暗殺事件に関与したとの疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転じた<ref name="hdl.10561.236">{{Cite journal |和書|author=[[徐賢燮]] |title=ロシア資料から見た駐露公使李範晋の自決 |journal=研究紀要 |issn=1346-6372 |publisher=長崎県立大学 |year=2008 |issue=9 |pages=215-228 |naid=120005474855 |url=https://hdl.handle.net/10561/236 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=[[麻田雅文]] |title=日露関係から見た伊藤博文暗殺 : 両国関係の危機と克服 |journal=東北アジア研究 |issn=1343-9332 |publisher=東北大学東北アジア研究センター |year=2012 |issue=16 |pages=1-25 |naid=40019254966 |url=https://hdl.handle.net/10097/53686 }}</ref>。日本国内においても、伊藤は[[明治六年政変|征韓論政変]]以来の国際協調派の元老として、[[山縣有朋|山県有朋]]らの軍閥による軍事拡張を抑えていた重鎮であり<ref>[[海野福寿]]『伊藤博文と韓国併合』 [[青木書店]]</ref>、伊藤の死亡により軍閥の発言力は増した。特に朝鮮半島の統治では[[韓国統監]]を伊藤博文・曾禰荒助と文官が務めてたのが、[[寺内正毅]]以降は[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]も含めていずれも[[武官]]が就任しするように改められ、武断政治が行われるようになった。
 
=== 民間の政治団体・一進会の上奏声明 ===
[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|300px|left|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]の署名が入っている。]]
12月4日、韓国の政治団体[[一進会]]の「顧問」<ref>{{Cite book|和書|title=日本の亜細亜 : 皇国史談|year=1932|publisher=黒竜会出版部|page=289|first=内田良平|quote=自強会が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣及び一進会長並びに同会顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/159}}</ref>として東京から同会を「指揮」<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=外交史料 韓国併合(下)|year=2003|publisher=不二出版|page=657|author=海野福寿編|quote=憲機第二三六五号 今回一進会ノ発表シタル声明書ノ主謀者ハ内田良平ニシテ、仝人ガ該書ヲ齎ラシタルコトハ蔽フ可カラザルモノニシテ、発表後、以外ニモ国民及政府ノ反対激烈ナルタメ、殆ンド今日ニテハ其成算ニ苦ミ居レリト。而シテ昨日、菊池謙譲ハ内田ニ対シ大要左ノ如キ忠告ヲ与ヘタリト。一、今日ノ事件ハ時機未タ熟セズ、一般ノ反対ヲ受ケ平和ヲ破壊スル而已ナラズ、平地ニ風波ヲ起スモノナレバ、一進会ノ指揮ハ東京ニ於テ之レヲ為サス、一切之レヲ京城ニ移シ、且ツ内田等ハ潔ク関係ヲ絶チ、間接ニ一進会ヲ援助スベシト。}}</ref>「操縦」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B03050610500|title=伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件 3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日(42画像目)|accessdate=2021年8月30日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=乙秘第二五〇号 一月二十九日 菊地忠三郎ノ行動 日韓電報通信社長菊地忠三郎ハ内田良平ガ退韓後同人ニ代リ一進会操縦ノ任ニ当リ居リタルガ}}</ref>していた[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]が「主謀」<ref name=":1" />して、一進会名義の声明書を韓国皇帝純宗、統監曾禰荒助、首相李完用に提出した。内田は東京で武田範之に声明草案を示して文章化させ<ref>{{Cite book|和書|title=日本の亜細亜 : 皇国史談|year=1932|publisher=黒竜会出版部|page=284|author=内田良平|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/157|quote=武田は著者と天祐侠以来の同志にして、博学且韓国流の漢文を書くことに於て唯一人者であった。同人の漢文は韓人が之を読んで、日人の筆に成ったと観るものなき程の文章家である。武田の着京するや、曩に杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意を以て漢文となさしむる為め、芝浦竹芝館に籠居せしむること一週日の後、上奏文及び韓国統監に上る書、総理大臣李完様に上る書の三通を脱稿し、準備は茲に全く完成した。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=外交史料 韓国併合(下)|year=2003|publisher=不二出版|page=611|author=海野福寿編|quote=一進会李容九の名において曾禰荒助統監に提出された合邦請願書は、内田良平の下で合邦運動に従事していた武田範之が起草し、一二月一日に再渡韓した内田が持参した原稿に若干の修正を加えたものである。}}</ref>、自ら渡韓して12月1日京城に入り、一進会会長李容九らと打合せ<ref>{{Cite book|和書|title=日本の亜細亜 : 皇国史談|year=1932|publisher=黒竜会出版部|page=288|author=内田良平|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/159|quote=著者は渡韓の途中、下の関に於て暴風雨に沮まれ、予定より一日後れて三十一日乗船、十二月一日京城に入り、即夜清華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と会合して、携帯せる合邦上奏文及び建議書を李容九に渡し、之が提出の手順を議定した。}}</ref>、語句修正の後同月3日に一進会本部で声明書を可決<ref>{{Cite book|和書|title=日本の亜細亜 : 皇国史談|year=1932|publisher=黒竜会出版部|page=292|author=内田良平|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/161|quote=十一月(引用者注:十二月の誤りか)二日、武田は一進会中の能文家崔永年と共に、合邦の上奏文其他の字句修正を行ひ、李容九にも熟読せしめて慎重に協議する所ありしが、僅かに二三句を刪正したるのみにて之を終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居浄書せしめた。三日、一進会は三派の提携を断絶すると同時に、本部に於て大会を開き、合邦の上奏案を討議し、満場一致を以て一気呵成的に之を可決した。}}</ref>、翌4日に提出した。韓国各地の一進会員は本部からの電報と同会機関紙により声明を知った<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A05020350800|title=韓国警察報告資料巻の4(7画像目)|accessdate=2021年8月30日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=一進会員ノ如キハ始メ本部ヨリ『皇室尊重人民仝等合致宣言書頒布』ノ電報ニ接シ次ニ国民新聞(引用者注:一進会の機関紙)ニヨリ宣言書ノ内意ヲ知リタルモノニシテ中ニハ其突然ノ発表ニ驚キタルモノアリ中ニハ自党ノ問題タルニ係ハラス反対ノ言ヲ吐ク者アリ又四面ノ攻撃ニ耐ヘスシテ脱会ヲ公示シタル者アリシカ各地多クハ本部ノ諭示ニヨリ何レモ慎重ノ態度ヲ持シ他ノ動静ヲ観望スルニ怠ラス}}</ref>。また声明書は、事前に山県有朋、桂太郎首相、寺内正毅陸相の同意を得ていたという<ref>{{Cite book|和書|title=日本の亜細亜 : 皇国史談|year=1932|publisher=黒竜会出版部|page=286|author=内田良平|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/158|quote=十五日(引用者注:1909年11月)、杉山(引用者注:杉山茂丸)を訪ひしに、杉山告ぐるに『山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる』を以てし}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=伊藤博文と日韓併合|year=2004|publisher=青木書店|pages=178-179|author=海野福寿|quote=黒龍会編『日韓合邦秘史』によれば、伊藤の死後まもなく宋秉畯・内田良平・武田範之が合邦請願書の草案を作成し、山県・寺内・桂の同意を得たという。}}</ref>。
 
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また、日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり外交権が奪われ、保護条約に至ったのは我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明を発表した。
 
ただし、「韓日合邦を要求する声明書」は日本と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の両国の時勢・国力比から考えて日本側には受け入れられない提案であったために拒絶した<ref>『韓日合邦を要求する声明書』 一進会</ref>。
 
[[ファイル:Gazette of Government-General of Korea, 1910-08-29.png|thumb|併合当日に発行された『[[朝鮮総督府官報]]』第1号の第1面。[[明治天皇]]が併合に際して発した[[詔書]]が掲載された。曰く「朕ハ韓国皇帝陛下ト与(とも)ニ〔中略〕茲(ここ)ニ永久ニ韓国ヲ帝国ニ併合スルコトトナセリ」。]]
=== 伊藤博文の暗殺 ===
[[1909年]] (明治42年)[[10月26日]]、[[日本]]の枢密院議長[[伊藤博文]]はロシア蔵相[[ウラジーミル・ココツェフ]]と日露関係の調整をするために渡航し、[[ロシア帝国]]が清から[[租借地]]としていた[[ハルビン駅]]で朝鮮民族主義者の[[安重根]]に暗殺された。この事件の影響により、欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であるロシアは、ロシア領内で発生した暗殺事件に関与したとの疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転じた<ref name="hdl.10561.236">{{Cite journal |和書|author=[[徐賢燮]] |title=ロシア資料から見た駐露公使李範晋の自決 |journal=研究紀要 |issn=1346-6372 |publisher=長崎県立大学 |year=2008 |issue=9 |pages=215-228 |naid=120005474855 |url=https://hdl.handle.net/10561/236 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=[[麻田雅文]] |title=日露関係から見た伊藤博文暗殺 : 両国関係の危機と克服 |journal=東北アジア研究 |issn=1343-9332 |publisher=東北大学東北アジア研究センター |year=2012 |issue=16 |pages=1-25 |naid=40019254966 |url=https://hdl.handle.net/10097/53686 }}</ref>。日本国内においても、伊藤は[[明治六年政変|征韓論政変]]以来の国際協調派の元老として、[[山縣有朋|山県有朋]]らの軍閥による軍事拡張を抑えていた重鎮であり<ref>[[海野福寿]]『伊藤博文と韓国併合』 [[青木書店]]</ref>、伊藤の死亡により軍閥の発言力は増した。特に朝鮮半島の統治では[[韓国統監]]を伊藤博文・曾禰荒助と文官が務めてたのが、[[寺内正毅]]以降は[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]も含めていずれも[[武官]]が就任しするように改められ、武断政治が行われるようになった。[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|300px|left|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]の署名が入っている。]]
=== 併合 ===
[[1910年]](明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められ、8月22日の御前会議で李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は[[漢城]](現:[[ソウル特別市]])で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、日本は大韓帝国を併合した。