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| 死没 = [[天正]]元年([[1573年]])
| 改名 =
| 別名 = 八郎、[[葛山備中守|備中守]]
| 戒名 =
| 墓所 =
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| 父母 = [[葛山貞氏]]
| 兄弟 = [[葛山綱春]]?
| 妻 = ちよ([[北条氏綱]]の娘)
| 子 = [[葛山信貞]]室
| 特記事項 =
}}
 
'''葛山 氏元'''(かつらやま うじもと、[[永正]]17年([[1520年]]) - [[天正]]元年([[1573年]])?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[駿河国]][[駿東郡]]の[[国衆]]で、[[葛山城 (駿河国)|葛山城]]城主。備中守。養父は[[葛山氏広]]。実父は[[葛山貞氏]]。妻は[[北条氏綱]]の娘・ちよ。子にちやち([[瀬名氏詮]]室)、おふち([[葛山信貞]]室)。この他に松千世・竹千世・久千世(いずれも元服後の名は不明)という男子がいたという<ref name=kuroda45>黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-289-6 P45-47.</ref>
 
== 略歴 ==
[[葛山氏]]は駿河国の東部に広域にわたって在地領主制を展開した国衆。その支配地域が[[今川氏]]の駿河、[[武田氏]]の[[甲斐国|甲斐]]、[[後北条氏|北条氏]]の[[相模国|相模]]の三国の国境沿いに位置していたため、形の上では今川氏に従属していたが、武田氏や北条氏とも関係が深かった。
 
天文4年([[1535年]])頃に氏広の養子となり、天文7年([[1538年]])に養父が死去すると家督を継いだ。養父が北条氏の出身であることから北条氏に従属し、大永6年([[1526年]])生まれの氏綱の娘「ちよ」を娶った<ref name=kuroda45/>。
氏元も当初は今川氏に帰属していたが、永禄後年には同盟関係にあった武田・今川氏の関係が険悪化し、[[永禄]]11年([[1568年]])末に武田氏は今川領国への侵攻を行う([[駿河侵攻]])。氏元は[[朝比奈信置]]や[[瀬名氏]]らと武田方に内応し、翌永禄12年2月1日には武田家臣[[穴山信君]]とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた[[富士郡]]の[[富士信忠]]の守る[[大宮城 (駿河国)|大宮城]](富士宮市)を共に攻めている(『静岡県史』資料編8 - 358号)。
 
ところが、[[河東一乱]]で北条氏と今川氏が衝突する最中の天文14年([[1545年]])、突如北条氏から離反して、以後今川氏に従属する。その功績によって御厨地方<ref>黒田基樹『戦国北条家一族事典』(P223.)によれば、御厨地方は北条氏に従属していた[[垪和氏]]の支配地であったが、今川氏に占領されたために関東に移ってそのまま北条氏の家臣となったという。</ref>を与えられて御一家衆としての待遇を受けた。
氏元は信玄の六男の[[葛山信貞|信貞]]を養子とし家督を譲り、信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は[[城代]]の[[御宿友綱]]が行っていたと考えられている。天正元年(1573年)2月末、謀反の嫌疑により[[信濃国]][[諏訪地域|諏訪]]において処刑されたという(仏眼禅師語録)。
 
氏元も当初は今川氏に帰属していたがその後、永禄後年には同盟関係にあった武田・今川氏の関係が険悪化し、[[永禄]]11年([[1568年]])末に武田氏は今川領国への侵攻を行う([[駿河侵攻]])。氏元は[[朝比奈信置]]や[[瀬名氏]]らと武田方に内応し、翌永禄12年2月1日には武田家臣[[穴山信君]]とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた[[富士郡]]の[[富士信忠]]の守る[[大宮城 (駿河国)|大宮城]](富士宮市)を共に攻めている(『静岡県史』資料編8 - 358号)。
 
氏元は信玄の六男の[[葛山信貞|信貞]]を養子とし家督を譲り、信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は[[城代]]の[[御宿友綱]]が行っていたと考えられている。天正元年(1573年)2月末、謀反の嫌疑により[[信濃国]][[諏訪地域|諏訪]]において処刑されたという(仏眼禅師語録)。この時、家族も殺害されたと伝えられている<ref name=kuroda45/>。
 
御宿友綱(監物)や[[御宿政友]]を輩出した[[御宿氏]]とは同族である。
== 脚注 ==
<references/>
 
{{DEFAULTSORT:かつらやま うしもと}}