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[[File:KagekiyoJizo_Washu_nara_1844.png|thumb|320px|天保15年 和州奈良之絵図<br>
左方最上段に景清辻子、右方に景清地蔵が見える]]
'''勝願院'''(しょうがんいん)は、[[奈良市]][[高畑町]]付近にかつてあった寺院。現在は[[新薬師寺]]にある[[新薬師寺#文化財木造地蔵菩薩立像(2躯)|景清地蔵]]がかつて安置されていたため、'''景清地蔵堂'''とも呼ばれた。
 
== 所在 ==
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往古は[[興福寺]]の別院であったとされる{{sfn|坊目拙解|p=231}}。近世には艸堂一宇と景清地蔵一躯が残されており、東北の傍には[[弁才天|弁財天]]小社があって、社殿下の石窟に一円鏡が納め祀られていたという{{sfn|坊目拙解|p=231-232}}{{sfn|平城坊目考 上|p=30}}。[[享保]]3年([[1718年]])[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]、勝願院は焼亡し、景清地蔵は煙の中から救い出されたものの損壊した{{sfn|坊目拙解|p=233}}{{sfn|年中行事|p=149}}。享保6年([[1721年]])に堂宇が再建され、景清地蔵も修理され再度安置されたという{{sfn|坊目拙解|p=233}}{{sfn|年中行事|p=149}}。
 
その後、堂宇廃亡に及んで景清地蔵は新薬師寺の傍に移されたとの記録があり{{sfn|平城坊目遺考 上|p=8}}、さらに[[明治]]2年([[1869年]])、新薬師寺の所蔵となった<ref>[[新薬師寺#文化財木造地蔵菩薩立像(2躯)|景清地蔵]]の項参照</ref>。
 
== 景清伝説 ==
西海に落ち延びていた[[藤原景清|平景清]]が、[[東大寺大仏殿]]供養の日に[[源頼朝]]を暗殺するため奈良を訪れ、景清辻子に住んでいた老母を訪ねてここに匿れ住んでいたとの伝説が、いくつかの地誌に記録されている{{sfn|坊目拙解|p=232}}{{sfn|年中行事|p=147-148}}{{sfn|平城坊目考 上|p=31}}{{sfn|八重櫻|p=351}}{{sfn|奈良名所集|p=266}}。老母は持仏の地蔵尊を勝願院に祀っていたが、景清は自分の持つ弓の鉾をこの地蔵の[[錫杖]]の柄とした{{sfn|坊目拙解|p=232}}{{sfn|年中行事|p=148}}{{sfn|奈良名所集|p=266}}。これが今に伝わる景清地蔵だという。または一説に、景清地蔵の細く瞳のない両眼は、景清の盲目の相を写したとの記載もある{{sfn|年中行事|p=148}}{{sfn|奈良名所集|p=266}}。勝願院東北にあった弁財天小社に納められていた一円鏡も、この老母の納めたものだともいう{{sfn|坊目拙解|p=232}}{{sfn|平城坊目考 上|p=30}}。
 
実際には、[[建久]]6年([[1195年]])[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]の大仏供養で頼朝が京にいた際、既に景清は捕らえられて鎌倉にいたため、奈良に居たはずはない{{sfn|坊目拙解|p=232}}{{sfn|年中行事|p=148-149}}。また、『[[新薬師寺#文化財木造地蔵菩薩立像(2躯)|景清地蔵]]』の項で説明されている通り、『景清地蔵』はその元となる『おたま地蔵』が、[[嘉禎]]2年([[1236年]])に亡くなった[[実尊]]の追善のために造られたことがわかっており、景清の時代とは時期が合わない。『[[村井古道#奈良坊目拙解|奈良坊目拙解]]』などではこの伝説の虚実について、(1)大仏供養の日、大衆と警固の[[梶原景時]]との間で諍いが発生した事件があった (2)同じく大仏供養の日、平氏落人の盛国という者が、頼朝暗殺を画策して露呈し捕らえられた(3)景清の兄、上総五郎兵衛尉忠光が、鎌倉で御堂造営の人夫に紛れ、頼朝暗殺を狙い捕らえられた、といったようないくつかの事件が景清の行業と混同され、伝説が生じたのであろうと推察している{{sfn|坊目拙解|p=233}}{{sfn|年中行事|p=148-149}}。
 
== 脚注 ==