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{{by|1956年}}に[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]へ入団。1年目から[[安藤順三]]と併用され、70試合に先発マスクを被る。礼儀正しい言動と闘志あふれるプレーで、猛者揃いのチームの中でも目立った存在だった。「'''ケンカはち'''」「'''ケンカ八郎'''」のニックネームでファンが多く、2年目の{{by|1957年}}は6月から四番打者に定着。一時は打撃成績1位にランキングされるほどの活躍を見せるが、8月22日の対[[大映ユニオンズ|大映]]戦で試合中にクロスプレーで右腕を[[骨折]]、残りのシーズンを棒に振った。{{by|1958年}}は開幕から四番打者として起用されるが、5月10日の対[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦([[駒澤野球場|駒沢]])で判定をめぐって[[審判]]へ暴力行為を働き退場、無期限出場停止処分となる。しかしファンからの署名活動により、6月23日に出場停止が解除された。{{by|1959年}}は[[岩本義行]]監督の提案により開幕から[[三塁手]]として起用されるが、5月30日の[[近鉄バファローズ|近鉄]]戦において一回裏一死一、三塁の場面で三塁走者として本塁へ[[ディレイドスチール|盗塁]]を仕掛けた際、タイミングが明らかにアウトであったにも関わらず、強引なスライディングをし、近鉄の[[加藤昌利]]捕手の左腕をスパイク。このスライディングに注意した加藤と口論となって加藤の左肩上を殴打して退場処分となった<ref>「東映の山本また乱暴」朝日新聞1959年5月31日付</ref>。この暴行によって自主的に出場停止し、[[永平寺]]で精神修行も行った。9月に復帰すると、シーズン後半には[[右翼手]]に回った。{{by|1960年}}には捕手に戻り、大きなトラブルもなく5年目にして初めて[[規定打席]](打率.249、リーグ25位)に達する。{{by|1961年}}監督が[[水原茂]]に交代すると、山本は[[一塁手]]に回って自己最高の打率.296(リーグ11位)、68[[打点]]、24[[盗塁]]を記録。{{by|1962年}}のリーグ初優勝にも貢献したが、同年の[[阪神タイガース|阪神]]との[[1962年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では前半3試合で6打数無安打に終わり、後半4試合は出番がなくなった。
 
監督の水原茂との確執があり1961年オフから[[トレード]]の噂が絶えなかったが、1962年オフに[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]へ放出される<ref>『日本プロ野球トレード大鑑』90頁</ref>。{{by|1963年}}は強肩を活かし外野手として起用され、[[ジャック・ブルームフィールド|ブルーム]]・[[小玉明利]]と[[クリーンナップ]]を打ち、打率.280(11位)、22本塁打を記録。その後も中心打者として活躍し、{{by|1965年}}には15補殺を記録するが、など守備でも貢献する。{{by|1966年}}[[カール・ボレス]]の加入によって控えに回り、同年オフに[[自由契約]]となる<ref>『日本プロ野球トレード大鑑』94頁</ref>。1967年は[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]でプレーするが、出場機会に恵まれず、同年限りで現役を引退。
 
引退後の翌{{by|1968年}}は[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[野球解説者|解説者]]を務めるが、暴行事件を起こして逮捕されるなどのトラブルもあり短期間で退く。その後は[[鴨川シーワールド]]での[[シャチ]]の飼育係を経て、大阪で実家の生花店を継ぐなど、球界から一線を引いている。高校時代のチームメートだった坂崎も「当時の全日本のメンバーの中には山本初め、消息のわからない選手もいる」と語っており、1999年に発刊された『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』の本人の紹介ページにも「引退後は消息不明」とされている。しかし、東映の同僚で浪商高の後輩でもある[[張本勲]]によれば2021年4月時点でも存命であるとされている<ref>{{Cite web|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/c2ef0a9c44fa9f32416b7f30720e624968ac6d4e?page=2|title=東映では四番・捕手を務めた名選手。血の気が多く、永平寺で精神修行まで行った山本八郎さんは忘れられない大先輩だ【張本勲の喝!!】|publisher=週刊ベースボール|date=2021-4-13|accessdate=2021-4-18}}</ref>。