「中書島」の版間の差分

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酒の名所であるために遊びに来る人が多く、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に芸妓屋が集まる[[花街]]となり、[[祇園甲部|祇園]]をしのぐほどの名妓を輩出してきた。
 
1910年(明治43年)、[[京阪電気鉄道|京阪電車]]の創業とともに[[中書島駅]]が開業。1914年(大正3年)には[[京都電気鉄道]](のち[[京都市電伏見線]])が中書島駅まで延長され、ますます栄えるようになった。この頃には貸座敷77軒、娼妓282人、芸妓45人であった<ref>1913年時点。『京都府誌』(1914年)p383。[https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229671/274?tocOpened=1]</ref>。[[昭和]]初期には深草に司令部を置く[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]の将校、兵士も遊郭、花街を利用していた。
 
[[1958年]]([[昭和]]33年)[[3月15日]]、[[売春防止法]]によって遊廓としての役割を閉じ、当初、転業をめぐってお茶屋派と学生相手の下宿派に分かれ対立してきたが沈静化した。その後も芸妓屋は残ったが次第に衰退し、[[1970年]](昭和45年)には花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は普通の商店街、住宅地であり、わずかながら花街、遊廓時代の建物が残されている。