'''ばら戦争'''は、[[百年戦争]]のあとに続いて戦われたイングランド]]において、の内戦。中世封建諸侯の権力闘争。[[1455年]]に[[ヨーク公リチャード]]が、ヘンリー6世に反旗を翻してから、[[1485年]]、テューダー朝が成立するまでの、[[ランカスター家]]と[[ヨーク家]]の一連の戦いで実態は中世封建諸侯の権力闘争であった。[[百年戦争]]のあとに続いて戦われたイングランドの内戦を指す。
==ランカスター朝の成立==
[[フランス]]との戦いに戦果を上げられず民心を失っていたプランタジネット家嫡流のイングランド王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]](在位[[1377年]] - [[1399年]])に対しは、度重なる反乱に悩まされていた。プランタジネット家支流、ランカスター公[[ジョン・オブ・ゴーント]]の子ボリンブロクは反乱の黒幕と目されていたので、リチャード2世はボリンブロクに国外追放と領地没収の王命を受けて蜂起し王位移譲を要求言い渡した。
多くの諸侯の同情と支持を得て優位に立っいたボリンブロクが、逆に王位移譲を見要求して反撃に出ると、勝ち目のないことを悟ったリチャード2世は、やむなく退王位してをボリンブロクに王位を譲った。ボリンブロクは、[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]](在位[[1399年]] - [[1413年]])として即位したボリンブロクは、残存するが、治リチャード2世の初期は王党派などによる内乱に悩まされ続けた。その勢力と死闘をくり返し晩年にようやく[[内乱]]も治まりこれを鎮圧して国内はを安定しさせた。
ヘンリー4世を継いだ[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]](在位[[1413年]] - [[1422年]]) のは、国内が安定したこと きから百年戦争を再開する。[[アジャンクールの戦い]] にで大勝したヘンリー5世は、イングランド王 のによるフランス王位継承権を認めさせてランカスター家の威光を 大い内外に高めた 。しかしものの、 ヘンリー5世の突然 の死によ世を去って 、新しまった な権力闘争が開始される。 ▼
▲ヘンリー4世を継いだ[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]](在位[[1413年]] - [[1422年]])のとき百年戦争を再開する。[[アジャンクールの戦い]]に大勝したヘンリー5世は、イングランド王のフランス王位継承権を認めさせてランカスター家の威光を大いに高めた。しかし、ヘンリー5世の突然の死によって、新たな権力闘争が開始される。
==ばら戦争の開始とヨーク朝の成立==
父親ヘンリー5世の死で幼くして即位した遺児[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](在位[[1422年]] - [[1461年]])は、長じて幼いときからも精神の病が原因あってひ弱で、常に一族の有力家臣や者・王妃[[マーガレット・オブ・アンジュー]]ら・有力家臣による国政介入を許し受けつづけていた。
[[1453年]]、イングランド軍はがフランス軍との戦いに大敗を喫しすると、イングランドはフランスにあった領土のほとんどを失ってしまう。ヘンリー6世の権威はが完全に地に墜ちてしまると、有力者であった。この機に乗じて、プランタジネット家支流、のヨーク公リチャードは、機に乗じてランカスター家からの王位簒奪を企てた。国内を二分するランカスター家とヨーク家の争いは、セント・オールバーンズで戦端が開かれ、以後30年間、有力諸侯を巻き込んで、両家は血みどろの戦いを繰り返計画した。
かってランカスター家のボリンブロクは、民心の支持を失ったリチャード2世を廃して王位を継承したのであるから、ヨーク家出身のリチャードにもヘンリー6世を廃して即位する権利が存在するという論理である。
戦いを優位に進め権力を手中に収めかけていたヨーク公リチャードは、[[1460年]]12月、不覚にも[[ウェイクフィールドの戦い]]で戦死してしまった。ヨーク公リチャードの子エドワードは、父の遺志を継いで一族の有力者ウォリック伯[[リチャード・ネヴィル]]や弟達([[クラレンス公ジョージ]]、[[リチャード3世 (イングランド王)|グロースター公リチャード]])と協力しランカスター派を破って、ヘンリー6世を退位させ、[[1461年]]11月、[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]](在位[[1461年]] - [[1483年]])として即位した。 ▼
ランカスター家とヨーク家は国内を二分して激しく対立し、ついに[[セント・オールバーンズ]]で両派の戦端が開かれた。以後30年間、イングランド国内で血みどろの内戦がくり広げられることになる。
間もなくしてエドワード4世は結婚問題が絡んだ外交政策や政権の主導権をめぐって、ウォリック伯とその娘婿であるクラレンス公と対立し、これと結んだマーガレット・アンジューらランカスター派の反撃を受けてヘンリー6世に王位を奪い返された。
▲意志薄弱なヘンリー6世に対し戦いを優位に進め 権力を手中に収めかけていたヨーク公リチャードは、 勝利を目前にして、 [[1460年]]12月、 不覚にも [[ウェイクフィールドの戦い]]で あっけなく戦死してしま ったう。 この危機に際してヨーク公リチャードの子エドワードは、 父の遺志を継いで一族の有力者ウォリック伯[[リチャード・ネヴィル]]や弟達([[クラレンス公ジョージ]] 、・[[リチャード3世 (イングランド王)|グロ ースター公リチャード]])と 協力し結束を固めランカスター派を破 ってると、ヘンリー6世 をに退位 させを迫り、[[1461年]]11月、[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]](在位[[1461年]] - [[1483年]])として即位した。
王位に就いたエドワード4世がウォリック伯やその娘婿であるクラレンス公と結婚問題が絡んだ外交政策や政権の主導権をめぐって対立するようになると、マーガレット・アンジューらに主導されたランカスター派はウォリック伯と結んでエドワード4世から王位を奪い返し、[[1470年]]、 ヘンリー6世が復位した。
クラレンス公はヘンリー6世後の王位継承を密かに望んでいたものの、ウォリック伯の娘アンとヘンリー6世の子エドワードが結婚したことから望みを絶たれ新政権から離脱した。この時、国外に逃れていたエドワード4世とグロスター公はクラレンス公と和解して、兄弟3人の結束を確認すると、[[1471年]]イングランドに攻め入り再びランカスター派を破って復位した。
王に復帰したエドワード4世は、ランカスター派を徹底的に駆逐し、かって自分に敵対したクラレンス公をも粛清し反乱の芽を摘んで国内の政情を安定させた。
一時、国外に逃れたエドワード4世はグロスター公と再起し、ウォリック伯の娘アンとヘンリー6世の子エドワードの結婚に疑念を持ったクラレンス公との和解を果たして、兄弟3人結束してランカスター派を破って復位した。復位したエドワード4世は、ランカスター派を徹底的に粛清して、その後、国内の政情は安定した。
==テューダー朝の成立==
[[1483年]]、再び転機が訪れる。エドワード4世が病死するとグロスター公は、幼いエドワード4世の子[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]](在位[[1483年]])から王位と母后一族を奪っ排除して[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](在位[[1483年]] - [[1485年]])として即位する。
リチャード3世の即位 は国内を 巡って様々な憶測が飛び交い、政情は混 迷の度を深めて行く。乱させ各地に反乱 がを引き起こ り、した。[[1485年]]フランスに亡命していたランカスター家支流 、の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー ・テューダー7世]] がは、兵を率いてイングランドに上陸 し、すると[[ボズワーズの 決戦 い]]でリチャード3世を打 ち倒 した。ヘンリー・テューダーは、エドワード4世の子エリザベスと結婚してヨーク家と和解すると、ヘンリー7世として即位し [[テューダー朝]]を開始した。 ▼
▲リチャード3世の即位を巡って様々な憶測が飛び交い、政情は混迷の度を深めて行く。各地に反乱が起こり、フランスに亡命していたランカスター家支流、[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]が兵を率いてイングランドに上陸し、ボズワーズの決戦でリチャード3世を打ち倒した。
*[[ウィリアム・シェークスピア|シェークスピア]]などの史劇には、リチャード2世は無能な暴君、ヘンリー6世は異常性格者、リチャード3世は悪逆非道の暴君として登場する。しかし、その評価を安易に 決定下す ることは 、妥当で慎まなければならない。 後の世で語られるとき、政治的 に敗北 した者は 、後世から無為・無策・無能と呼ばれ 正当な評価を受けることが 多少ない からである。 ▼
ヘンリー・テューダーは、エドワード4世の子エリザベスと結婚してヨーク家との和解を演出し、その結果、[[テューダー朝]]が成立した。
▲*[[ウィリアム・シェークスピア|シェークスピア]]などの史劇には、リチャード2世は無能な暴君、ヘンリー6世は異常性格者、リチャード3世は悪逆非道の暴君として登場する。しかし、その評価を安易に決定することは、妥当でない。後の世で語られるとき、政治的敗北者は無為・無策・無能と呼ばれることが多い。
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