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'''溝口 宣直'''(みぞぐち のぶなお、[[1605年]]([[慶長]]10年) - [[1676年]][[12月26日]]([[延宝]]4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]))は、[[越後]][[新発田藩]]の第3代藩主。父は第2代藩主・[[溝口宣勝]]。母は[[堀秀政]]の娘。正室は[[稲葉一通]]の娘、[[森川重俊]]の娘と数多くいるが、そのほとんどが死別している。官位は従五位下。出雲守。
 
1605年、新発田にて生まれる。幼名は久三郎。初名は溝口俊勝。
 
[[1628年]]、父の死により家督を継ぐ。このとき、弟の[[溝口宣秋]]に6000石、[[溝口宣俊]]に5000石、[[溝口宣知]]に4500石を分与したため、新発田藩の所領は5万石となった。宣直は幕府に対して[[江戸城]]の石垣普請などで活躍した。[[1633年]]には[[阿賀野川]]の決壊により藩を挙げて対応するという非常事態も起こった。その後も[[徳川家光]]の上洛随行、[[島原の乱]]のときの江戸城守備、[[御書院番]]、[[加藤明成]]改易のときの[[会津若松受け取り|若松城]]在番、[[下館城]]在番、[[大坂城番]]や、たびたびの[[勅使]]等の[[饗応]]などを務めている。なお、現在も残る[[清水園]]の基礎となる清水谷御殿を築き上げたのは、この宣直の時代である。しかし、藩内では大洪水や大火事が起こり、江戸でも有名な[[振袖火事]]が起こって多額の支出を被った。これに対して[[新発田川]]の治水工事を行なうことで解決を試み、いくらかは成功を収めたが、やはり財政難に陥った。
 
[[1672年]]9月7日、子の[[溝口重雄]]に家督を譲って隠居し、1676年11月22日に72歳で死去した。墓所は[[江戸]]駒込[[吉祥寺 (東京都文京区)|吉祥寺]]。