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童貞を殺す服から一部転記 - 試作のため
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{{File clip|Axes_Femme_store_at_iapm_(20191021122901).jpg|width=260|8|16|12|0|w=3827|h=2551|「童貞を殺す服」の代表の一つとされるブランド「アクシーズファム<ref name="NEWSY20160805">{{Cite news|language=ja|author=モトタキ|date=2016-8-5|title=「童貞を殺す服」は控えめに言って最高! こじらせガチ童貞に聞く|newspaper=[[しらべぇ]]|publisher=NEWSY|url=https://sirabee.com/2016/08/05/148900/ |accessdate=2021-9-6}}</ref>」(中国・上海市)、2019年10月21日撮影。}}
{{Infobox 人物
{{画像提供依頼|童貞を殺す服、[[#童貞を殺すセーター|童貞を殺すセーター]]|date=2021年10月|cat=被服}}
|氏名=山本 幡男
'''童貞を殺す服'''(どうていをころすふく)は、[[日本]]の[[インターネットスラング]]の一つ{{R|NEWSY20160805}}。[[女性]]の[[服装]]を指すものだが、その意味の解釈には「[[清純]]そうなイメージを感じさせる服<ref name="ねとらぼ20200707">{{Cite news|language=ja|date=2020-7-7|title=【5年前の今頃は?】「童貞を殺す服」が初めて話題に「清楚 or セクシー」あなたはどっち派?|newspaper=[[ねとらぼ]]|publisher=[[アイティメディア]]|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/07/news049.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>」「脱がせるのが困難な服<ref name="ねとらぼ20161213">{{Cite news|language=ja|date=2016-12-13|title=いざという時の実践的な参考書「完全実用版 おんなのこの服の脱がせ方」発売 実用書なので買うしかない|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1612/13/news127.html |accessdate=2021-10-3}}</ref><ref name="ねとらぼ20161124">{{Cite news|language=ja|author=あだちまる子|date=2016-11-24|title=童貞諸君をサーチアンドデストロイ! この冬大活躍しそうなワンピースが限定発売|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1611/24/news152.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>」「見た目が愛らしい服<ref name="ねとらぼ20160606">{{Cite news|language=ja|author=たろちん|date=2016-6-6|title=童貞を殺す服=脱がせにくい服? 書籍「童貞を殺す服の描き方」の定義がネット上で物議に|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1606/06/news108.html |accessdate=2021-10-3}}</ref>」「[[清楚]]感と[[エロティシズム]]を兼ね備えた服<ref name="おたぽる20170313">{{Cite news|language=ja|date=2017-3-13|title=アンジェラ芽衣、セクシービキニ姿に「さすが元・関東一可愛い女子高生!」童貞を殺すセーターで世界征服?|newspaper=[[おたぽる]]|publisher=[[サイゾー]]|url=https://otapol.com/2017/03/post-9972.html |accessdate=2021-9-6}}</ref><ref name="おたぽる20170219">{{Cite news|language=ja|date=2017-2-19|title=羽入悠栞、“黒ブラ透けおっぱい”に「毎日、頂戴!」“童貞を殺すセーター”で非童貞も瀕死状態に!|newspaper=おたぽる|url=https://otapol.com/2017/02/post-9746.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>」など、諸説がある。本記事ではそこから派生した言葉である「[[#童貞を殺すセーター|童貞を殺すセーター]]」についても述べる{{R|おたぽる20170219}}<ref name="BIGLOBEニュース20170323">{{Cite news|language=ja|date=2017-3-23|title=「童貞を殺すセーター」がついに日本上陸! ヴィレヴァンオンラインストアで販売開始|newspaper=[[BIGLOBEニュース]]|publisher=[[BIGLOBE]]|url=https://news.biglobe.ne.jp/trend/0323/blnews_170323_2106013917.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>。
|ふりがな=やまもと はたお
|画像=Yamamoto_Hatao_1.jpg
|画像説明=1941年当時
|生年月日={{生年月日と年齢|1908|9|10|no}}<ref name="収容所から来た遺書19920610_p59">{{Harvnb|辺見|1992|pp=59-62}}</ref>
|生誕地=[[島根県]][[隠岐郡]][[西ノ島町]]{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1908|9|10|1954|8|25}}<ref name="収容所から来た遺書19920610_p238">{{Harvnb|辺見|1992|pp=238-239}}</ref>
|死没地={{SSR}} [[ハバロフスク]]{{R|収容所から来た遺書19920610_p238}}
|死因=[[喉頭癌|喉頭癌性肉腫]]<ref name="収容所から来た遺書19920610_p205">{{Harvnb|辺見|1992|pp=205-206}}</ref>
|遺体発見=
|墓地={{SSR}} ハバロフスク 日本人墓地{{Sfn|辺見|1992|p=240}}
|記念碑=島根県隠岐郡西ノ島町 山本幡男顕彰之碑<ref name="読売20000829m_p25">{{Cite news|language=ja|title=シベリアで収容所生活 仲間励まし… 西ノ島出身・山本さんの顕彰碑建つ|newspaper=[[読売新聞]]|edition=大阪朝刊|date=2000-8-29|publisher=[[読売新聞社]]|paee=25}}</ref>
|住居=
|国籍={{JPN}}
|出身校=[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](中退){{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}
|職業=
|活動期間=
|時代=
|著名な実績=
|代表作=
|影響を受けたもの=
|影響を与えたもの=[[辺見じゅん]]<ref name="読売新聞20131031m_p31">{{Cite news|language=ja|date=2013-10-31|title=夕鶴 辺見じゅんの足跡 記憶の「遺書」に光|newspaper=読売新聞|edition=東京朝刊|page=31|ref={{SfnRef|読売新聞|2013}}}}</ref>
|活動拠点=
|テレビ番組=
|敵対者=
|罪名=
|刑罰=
|配偶者=有<ref name="収容所から来た遺書19920610_p230">{{Harvnb|辺見|1992|p=230}}</ref>
|子供=4人<ref name="収容所から来た遺書19920610_p115">{{Harvnb|辺見|1992|p=115}}</ref>{{Sfn|辺見|1992|p=115}}
|親=
|補足=[[シベリア抑留]]経験者
}}
'''山本 幡男'''(やまもと はたお、[[1908年]]〈[[明治]]41年〉[[9月10日]]{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}} - [[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[8月25日]]{{R|収容所から来た遺書19920610_p238}})は、[[第二次世界大戦]]終結後に旧[[ソビエト連邦]]による[[シベリア抑留]]を経験した[[日本人]]の一人。[[日本]]への帰国が絶望的な状況下において、[[強制収容所]]([[ラーゲリ]])内の日本人俘虜たちに[[日本の文化]]と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての[[遺書]]を遺しており、同志たちがその文面を[[暗記]]することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。[[島根県]][[隠岐郡]][[西ノ島町]]出身{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}。
 
== 経歴発祥と語義 ==
{{external media||image1= [https://image.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/07/kakokiji_07081_w480.jpg 話題のきっかけとされるブランド「NO.S PROJECT」の画像] - [[ねとらぼ]]}}
=== シベリア抑留までの経緯 ===
「童貞を殺す服」は、2015年(平成27年)7月上旬の頃から、[[Twitter]]上で話題になり始めたとみられている{{R|ねとらぼ20200707}}<ref name="めちゃコミック20160613">{{Cite web|url=https://sp.comics.mecha.cc/free/mechamaga/articles/clothes-killing-cherry-boy |title=噂の「童貞を殺す服」とは。漫画で解説します!|accessdate=2021-9-6|author=アナゴ|date=2016-6-13|website=[[めちゃコミック]]|publisher=[[アムタス]]}}</ref>。当時は、ブランド「NO.S PROJECT(ノスプロジェクト)」の白い[[ブラウス]]とハイウエストの[[スカート]]の組合せが「童貞を殺す服」の例として挙げられ、「美しい」「持ち上げ方が上手い」といった反応があった<ref name="ガジェット通信20171120">{{Cite news|language=ja|author=ふじいりょう|date=2007-11-20|title=スカートの中の夢を見せる!? 『NO.S PROJECT』のフリルミニペチコートが「オタクを殺す服」として話題に|newspaper=[[ガジェット通信]]|publisher=[[東京産業新聞社]]|url=https://getnews.jp/archives/1973642 |accessdate=2021-9-6}}</ref>。女性の体形を強調する画像だったこともあり、女性の体形に夢に見がちな[[童貞]]の男性も刺激を受けて「大好きです」「これは殺される」など、共感の声も挙がった{{R|ねとらぼ20200707}}。
旧制[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](後の[[東京外国語大学]])で[[ロシア語]]を学んだが、在学中に[[社会主義]]に没頭して[[左翼]]運動に参加していたことから、[[1928年]](昭和3年)の[[三・一五事件]]の際に逮捕され退学処分となった。そのまま復学もしていないため卒業はしていない{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}。1933年(昭和8年)に結婚し{{R|収容所から来た遺書19920610_p230}}、4人の子供をもうけた{{R|収容所から来た遺書19920610_p115}}。
 
「童貞を殺す服」という言い回しがユーザーの心を捉える上に憶えやすいため、Twitter上では「大好き」「自分はこういう服のほうが好きだ」などの想いが交錯し、大きな話題となった{{R|ねとらぼ20200707|ねとらぼ20150708}}。「童貞を殺す服」は[[ハッシュタグ]]にもなり、自分の思う「童貞を殺す服」の披露が続出し{{R|ねとらぼ20150708}}、[[ゴシック・アンド・ロリータ|ゴスロリ]]や[[アニメ]]のキャラクターの服装などの画像も投稿された結果、[[リツイート]]が1万件を超えることもあった{{R|Fashionsnap.com20150708}}。また、『[[Fate/stay night]]』や『[[艦隊これくしょん -艦これ-]]』といったゲームをもとにした画像も投稿された<ref name="Narinari.com20150714">{{Cite news|title=“童貞を殺す服”イラスト続々、キャラに着せた姿がニコニコで人気。|newspaper=[[Narinari.com]]|date=2015-7-14|url=https://www.narinari.com/Nd/20150732638.html |accessdate=2021-9-6|language=ja}}</ref>。中でも『艦これ』のキャラクター「電」のイラストは、[[ニコニコ静画]]に投稿されて以来、2日間で閲覧数が6万8000回以上に昇った{{R|Narinari.com20150714}}。この当時の「童貞を殺す服」の概念は、[[フリル (服飾)|フリル]]付きのブラウスとコルセットスカートのような服装{{R|Narinari.com20150714}}、または白いブラウスと膨らみのあるスカートなど、清純なイメージの服と考えられている{{R|ねとらぼ20200707}}。
[[1936年]](昭和11年)に[[満州]]にわたり、[[南満州鉄道]]内の調査機関である[[大連市]]の[[満鉄調査部]]に入社{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}。入社時の成績は、ロシア人の試験官が舌を巻くほどであった<ref>{{Cite book|和書|author=野中正孝編著|title=東京外国語学校史 外国語を学んだ人たち|date=2008-11-10|publisher=不二出版|isbn=978-4-8350-5767-5|page=1553}}</ref>。ロシア語の語学をはじめとする実力を発揮し、『北東アジアの諸民族』([[中央公論新社|中央公論社]])などソ連の社会、経済、軍事などに関する書を執筆して高い評価を受けた{{R|収容所から来た遺書19920610_p59}}。
 
一方、Twitterでは「どうやって脱がすかわからない服だと思っていた」など、当時よりすでにユーザーごとの解釈の違いが存在していた{{R|Fashionsnap.com20150708}}。「脱がせる方法がわからない服」が当初の意味合いであったが、先述のようなTwitterの拡散に伴って「童貞が好む服」との意味合いが定着しつつある、とも分析されていた<ref name="マガジンサミット20160512">{{Cite web|url=https://magazinesummit.jp/lifetrend/1348837160512 |title=女性たちが夏を刺激する! 謎のファッション【童貞を殺す服】とは!?|accessdate=2021-12-19|author=南城与右衛門|date=2016-5-12|website=マガジンサミット|publisher=[[富士山マガジンサービス]]}}</ref>。
[[ファイル:Yamamoto Hatao 2.jpg|サムネイル|山本幡男とその家族(1941年)]]
第二次世界大戦末期の[[1944年]](昭和19年)、召集令状により二等兵として入営{{Sfn|辺見|1992|pp=138-141}}。ロシア語に長けることから[[1945年]](昭和20年)に[[特務機関#ハルビン特務機関|ハルビン特務機関]]に配属された{{Sfn|辺見|1992|pp=138-141}}<ref name="昭和の遺書198708_p451">{{Harvnb|辺見編|1987|pp=451-452}}</ref>。
 
翌2016年(平成28年)6月に、[[めちゃコミック]]で「童貞を殺す服」が紹介された際には、その意味が「清楚な雰囲気と女性らしさを強調する服装」「清楚とセクシーを兼ね備えた服」と定義された{{R|めちゃコミック20160613}}。その例として、可愛らしさを残しつつも胸とくびれを強調するハイウエストコルセットタイプのスカート、清楚なブラウスとフリルを多用した可愛いスカート、清楚で上品な印象と大人の色気を兼ね備えた[[ノースリーブ]][[ニット]]などが挙げられた{{R|めちゃコミック20160613}}。
第二次世界大戦での[[日本の降伏]]後にソ連に抑留され、[[エカテリンブルク|スヴェルドロフスク]]収容所へ入れられた。満鉄調査部での北方調査やハルビン特務機関で山本はソ連の新聞や雑誌の翻訳を行っていたが、これらの活動がソ連に対するスパイ罪と見なされ、[[戦犯]]としてソ連の[[法 (法学)#国際法と国内法|国内法]]により重労働25年の刑を下された<ref name="文藝春秋19871001_p348">{{Harvnb|辺見|1987|pp=348-349}}</ref><ref name="潮20090901_p143">{{Harvnb|辺見|2009|pp=143-147}}</ref>。山本は軍人としては一兵卒であったが、この刑期は軍の司令官や大将にも匹敵する{{Sfn|鈴木編|1991|p=157}}。これほどの重い刑となったのは、ソ連のスパイとなることを強要された山本がそれを断ったため<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p245">{{Harvnb|三枝|1998|pp=245-247}}</ref>、または戦争の影響で正式な裁判が行われなかったため{{Sfn|黒田|1990|pp=236-237}}、との説もある。以後、冬には零下数十度となる厳しい気候、粗末な食事をはじめとする劣悪な環境のもと、長年にわたって重労働を強いられることとなった{{Sfn|三枝|1998|pp151-153}}。
 
同2016年7月、[[一迅社]]が書籍『童貞を殺す服の描き方』を刊行した{{R|ねとらぼ20160606}}。一迅社では、すでにこの言葉が様々なイメージを持って広がっていることを認めた上で、この書籍ではあえて「童貞を殺す服」の意味を「一見して構造を把握しにくいデザイン」「清楚ながらも体形を強調し、魅力的に見せる形状」「女性経験の少ない男性の脅威になる服装」と定義されており、代表例としてブラウスとスカートの組み合わせ、[[ワンピース]]が挙げられている<ref>{{Harvnb|一迅社|2016}}(カバー折り返し「はじめに」、該当箇所にページ番号表記なし)</ref>。この定義は、「経験の少ない男性にとっては、服の構造の把握が困難で、特定状況下において脱がせるのに困難を極めるため、羞恥に耐えきれず死を覚悟する服{{R|ねとらぼ20161213|ねとらぼ20160606}}」、「いざという場面で脱がせ方がわからないから死んでしまう{{R|ねとらぼ20161213|ねとらぼ20160606}}」とも解釈されている。これに近い意見として、「童貞絵師には構造がわからなくて描けないから(童貞がばれて)死んでしまう」という解釈もある{{R|ねとらぼ20160606}}。
=== 収容所での文化活動 ===
[[1946年]](昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人に呼びかけ、日本文化についての勉強会(後に学習会、同志会と改名)を始めた。折しも収容所内では帰国を諦める俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望を呼び戻すことが目的であった。ここで山本は『[[万葉集]]』や[[仏教]]を題材とする知識の豊かさで一同を驚かせ、わかりやすい話術で一同を楽しませた{{Sfn|辺見|1992|pp=25-29}}。
 
この一迅社の定義を機に、「そもそも『童貞を殺す服』とは何を指すのか」について、インターネット上で物議を醸した{{R|ねとらぼ20160606}}。「単純に『見た目が愛らしすぎて萌え死んでしまう』という意味ではないか」との指摘も出た{{R|ねとらぼ20160606}}。具体的には、先述のハイウエストスカート{{R|ねとらぼ20160606}}のほか、フリルを多用した白いブラウス{{R|ねとらぼ20160606|マガジンサミット20160512}}、柔らかく膨らんだスカートなど、清純なイメージの服装などが挙げられ<ref name="ねとらぼ20150708">{{Cite news|language=ja|author=たろちん|date=2015-7-8|title=お前らこういうのが好きなんだろ? Twitterが「童貞を殺す服」の話題で盛り上がる|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1507/08/news158.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>、ハイウエストでコルセットタイプのスカートが原点との説もある<ref>{{Cite news|language=ja|author=まっつ|date=2017-2-18|title=「いらすとや」と「けもフレ」サーバルちゃんがまさかの融合 たつき監督「フリー素材が出たと聞いて」|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1702/18/news027.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>。[[ドワンゴ]]の[[ニコニコ大百科]]でも「チェリーボーイ(童貞)の心臓を打ち抜いてしまう服・ファッション<ref name="Fashionsnap.com20150708">{{Cite web|url=https://www.fashionsnap.com/article/2015-07-08/doutei/ |title=あざとさが肝?“童貞を殺す服”がネットで話題|accessdate=2021-9-6|date=2015-7-8|website=[[Fashionsnap.com]]|publisher=レコオーランド}}</ref>」「女性の愛くるしさを感じさせる服装{{R|Fashionsnap.com20150708}}」と定義されており、フリル付きのブラウスやコルセットスカートが代表例に挙げられている{{R|Fashionsnap.com20150708}}。このほか、「露出は抑えられているものの、エロティシズムと可愛らしさを両立させた服<ref name="ねとらぼ20170306">{{Cite news|language=ja|author=はためく惑星|date=2017-3-6|title=“二次元ボディー”天木じゅん、ついに「童貞を殺すセーター」を着用してしまう|newspaper=ねとらぼ|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1703/06/news097.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>」「清楚感がありつつも、程良いエロティシズムも兼ね備えている服{{R|おたぽる20170313|おたぽる20170219}}」などの解釈もある。
その後も山本はソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、[[1949年]](昭和24年)に[[ハバロフスク]]市内の強制労働収容所へ移された。ここで山本はそれまでの経歴から「[[前職者]]」([[民主主義]]反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げに遭った{{Sfn|辺見|1992|pp=45-47}}。翌[[1950年]](昭和25年)に俘虜たちの帰国が始まったが、山本を含め戦犯とされた者たちは帰国を許されなかった{{Sfn|辺見|1992|pp=76-78}}。このことは彼らの帰国への希望を失わせるのに十分であり、山本も一度は絶望しかけていた{{Sfn|三枝|1998|p=165-167}}。しかし彼は自らを支えて希望を抱き続けようと誓い、日本や[[日本語]]を忘れないよう、以前から好んでいた[[短歌]]や[[俳句]]を詠うようになった{{Sfn|三枝|1998|p=174-175}}。
 
一迅社のように「脱がせにくい複雑な構成の服」{{R|NEWSY20160805}}、隠し[[ボタン (服飾)|ボタン]]のあるブラウスや、ボタンが非常に多いワンピースのように「脱がせるのに困る服」が本来の意味だったという説もある一方で<ref>{{Cite news|language=ja|author=大路実歩子|date=2017-4-22|title=SNSを賑わせた『DTを殺すセーター』にブルーが登場|newspaper=[[おたくま経済新聞]]|publisher=シー・エス・ティー・エンターテインメント|url=https://otakei.otakuma.net/archives/2017042201.html |accessdate=2021-10-3}}</ref>、「童貞なら確実に目を惹かれて惚れてしまう」というものが本来の解釈だったとの説もある{{R|ねとらぼ20160606}}。ブラウスやスカートなど、想定する服装の傾向については共通認識ができているが、明確な定義付けはされていないというのが実状と見られている{{R|ねとらぼ20160606}}。
やがて山本は、それらの俳句や[[随筆]]をまとめた[[同人誌|同人]]の[[文芸雑誌|文芸誌]]『文芸』を製作し、仲間内で密かに回覧を始めた。作業用のセメント袋を切って鉛筆で書いて綴じた粗末なものであったが<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p176">{{Harvnb|三枝|1998|p=176-177}}</ref>、日本を詠った俳句、無念のうちに収容所で死んでいった仲間たちへの想い、辛い日常の中で見つけたささやかな感動、過酷な環境下でも保ち続けている山本の人間性と感受性が皆の心を打った<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p179">{{Harvnb|三枝|1998|p=179-181}}</ref><ref name="収容所から来た遺書19920610_p81">{{Harvnb|辺見|1992|pp=81-87}}</ref>。『文芸』は人から人へと回覧され、次第に皆に帰国への希望を呼び起こした{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p179}}。俘虜たちが日本語に飢えていたこともあり、回覧から戻って来る頃には手垢で汚れて紙面がボロボロになっているほどだった{{Sfn|辺見|1992|p=121}}。後に俳句を好む者たちと共に[[句会]]の開催を始めた([[#アムール句会|後述]])。
 
=== 代表的なブランド ===
収容所側が俘虜たちの操縦の手段として文化部の設置を決定すると、山本はその部長に任命され、[[壁新聞]]作りに精力的に取り組んで国際情勢を皆に伝えた。後に収容所の文化部部長に任命された際は、俘虜たちに与えられた娯楽として月に1、2度開催された[[映画]]鑑賞会で同時通訳を務め、巧みな話術で皆からの笑い声を呼んだ{{Sfn|辺見|1992|pp=102-105}}。山本に触発された仲間の一人が[[同人誌]]を始めると山本は装幀作業、挿絵や詩、[[小説]]の寄稿などで協力した{{Sfn|辺見|1992|p=116}}。
ブランドとしては、先述の「NO.S PROJECT」が代表格とされる{{R|ねとらぼ20161124}}<ref name="ガジェット通信20180619">{{Cite news|language=ja|author=ふじいりょう|date=2018-6-19|title=露出を上げれば「童貞を殺す服」になるわけではない!? 上品さとデザイン性と攻撃性のMIXがカギ|newspaper=ガジェット通信|url=https://getnews.jp/archives/2054397 |accessdate=2021-9-6}}</ref>。特に「NO.S PROJECT」と[[ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店)|ヴィレッジヴァンガード]]とのコラボレーションによる「二次元と運命が交差するスカート」に対しては、「上品で好き」「コルセットの役割をしていて良い」といった声が寄せられており{{R|ガジェット通信20180619}}、この服の例として「最強」との声もある<ref name="Cherish20210831">{{Cite web|url=https://cherish-media.jp/posts/11811 |title=「童貞を殺す服」の写真&ツイートがエロすぎて危険! 色んなDTキラーまとめ|accessdate=2021-12-14|date=2021-8-31|website=Cherish|publisher=アクセル}}</ref>。公式サイトにも、「Twitterで『童貞を殺す服』のツイートをもとに同サイトに辿り着いた」と、客の声が寄せられている<ref>{{Cite web|url=https://nos-project.shopinfo.jp/posts/8157496/ |title=NO.S PROJECTとの出会い|accessdate=2021-12-22|date=2017-5-5|publisher=NO.S PROJECT}}</ref>。
 
その他にも、「axes femme(アクシーズファム){{R|NEWSY20160805|マガジンサミット20160512}}」、「[[ゴスロリブランド一覧#Innocent_World|Innocent World(イノセントワールド)]]{{R|マガジンサミット20160512}}」、「Amavel(アマベル){{R|マガジンサミット20160512}}」「Ank Rouge(アンクルージュ){{R|Cherish20210831}}」、「Secret Honey(シークレットハニー){{R|Cherish20210831}}」などがあり、現存しないブランドとしては「BLUEROGUE(ブルーローグ){{R|Cherish20210831}}」が挙げられている。
[[1951年]](昭和26年)以降に演劇好きの俘虜たちが[[劇団]]を旗揚げすると山本は脚本担当の一人となり、ソ連側を刺激しないような脚色で、それでいて独特のユニークな脚本で観客の喝采を浴びた<ref name="収容所から来た遺書19920610_p126">{{Harvnb|辺見|1992|pp=126-130}}</ref>。上演に際してソ連側が脚本の検閲を行う際には、ロシア語の弁舌を振るって上演の承諾を得た{{R|収容所から来た遺書19920610_p126}}。また同様に収容所の娯楽として好まれた[[草野球]]では、学生時代の野球部のスコア係の経験を活かして[[アナウンサー]]役を引き受け、当意即妙なアナウンスで皆を沸かせ、試合の盛り上げに一役買った{{Sfn|辺見|1992|pp=130-132}}。
 
== 童貞を殺すセーター ==
==== アムール句会 ====
{{external media||image1= [https://news.biglobe.ne.jp/img/blnews/trend1723_01.jpg 童貞を殺すセーター] - [[BIGLOBEニュース]]}}
[[ファイル:Amur.jpg|thumb|[[アムール川]](ハバロフスク地方)]]
「童貞を殺すセーター」は、胸の横部分と、肩から腰にかけてが大きく露出したホルターネックの[[セーター]]{{R|BIGLOBEニュース20170323}}<ref name="メンズサイゾー20170406_p1">{{Cite news|language=ja|author=愉快|date=2017-4-6|title=Iカップ猫娘・青山ひかる、横乳の破壊力抜群な「例のセーター」解禁でファンを悩殺!|newspaper=[[メンズサイゾー]]|publisher=サイゾー|page=1|url=https://www.menscyzo.com/2017/04/post_13923.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>。「恋愛に不慣れな男性が一発で虜になってしまう{{R|メンズサイゾー20170406_p1}}」「女性経験のない男性には刺激が強すぎる<ref name="J-CASt20170201">{{Cite news|和書|language=ja|date=2017-2-1|title=叶美香「童貞を殺すセーター」披露! 大胆すぎる露出に悶絶、気絶するファン続出|newspaper=[[J-CAST|J-CAST テレビウオッチ]]|publisher=[[ジェイ・キャスト]]|url=https://www.j-cast.com/tv/2017/02/01289454.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>」などの理由で「童貞を殺す」と形容されている{{R|メンズサイゾー20170406_p1|J-CASt20170201}}。「童貞を殺すニット」とも呼ばれる<ref name="メンズサイゾー20181204_p1">{{Cite news|language=ja|author=佐藤勇馬|date=2018-12-4|title=「抱き心地No.1グラドル」橘まりや、ポロリ寸前の“童貞を殺すニット”に男性ファン悶絶|newspaper=メンズサイゾー|page=1|url=https://www.menscyzo.com/2018/12/post_84362.html |accessdate=2021-9-6}}</ref>。
ハバロフスク強制労働収容所の第21分所へ移された後の1950年、山本は俘虜数人で集まって俳句を作り合うようになった{{R|収容所から来た遺書19920610_p81}}<ref name="文藝春秋19871001_p352">{{Harvnb|辺見|1987|pp=352-354}}</ref>。後にこの集まりは句会として、作業場から見える[[アムール川]]にちなんで「アムール句会」と名付けられた{{R|収容所から来た遺書19920610_p81}}。
 
2016年夏頃から、Twitterなどで投稿されることが多くなった{{R|おたぽる20170219}}。翌2017年(平成29年)1月には、[[中国]]のオンラインモール「[[淘宝網]]」で販売されていたこのセーターが「女性に耐性のない童貞には刺激が強すぎる『童貞を殺す服』のセーター版」として、日本のTwitterに投稿され、「童貞を殺すセーター」との呼び名が定着して{{R|BIGLOBEニュース20170323}}、日本のネットを賑わせるに至った{{R|J-CASt20170201|ネタとぴ20170323}}。その後も[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]上で、好きなキャラクターと組み合わせたイラストが多数掲載されたり、[[グラビアアイドル]]が実際に着用した写真を披露したりするなど{{R|メンズサイゾー20181204_p1}}、一部で大きな話題になった{{R|ねとらぼ20170306}}<ref>{{Cite news|language=ja|author=モーダル小嶋|date=2017-11-29|title=「童貞を殺すセーター」なんかもうすごい|newspaper=[[ASCII.jp]]|publisher=[[角川アスキー総合研究所]]|url=https://ascii.jp/elem/000/001/594/1594613/ |accessdate=2021-9-6}}</ref>。
当初は収容所内の片隅で雑談を装って催し、地面に棒で{{R|潮20090901_p143}}、または凍土に釘で字を刻むのみであった<ref name="渡辺">{{Cite news|language=ja|author=渡辺悟|date=2006-9-3|title=俳句の力|newspaper=[[毎日新聞]]|edition=大阪朝刊|publisher=[[毎日新聞社]]|page=2}}</ref>。やがて人数が増えるにつれて、作業用のセメント袋を切って短冊を作り、ブタの毛<ref name="90年代を生きるために_p240">{{Harvnb|黒田|1990|pp=240-241}}</ref>、ウマの尾の毛、ロープをほぐしたもので筆を作り、ストーブの灰や煤煙を水に溶かして墨汁の代用とし、といった具合に体裁が整えられた{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p176}}<ref name="収容所から来た遺書19920610_p87">{{Harvnb|辺見|1992|pp=87-88}}</ref>。
 
2017年1月、[[叶美香]]がこのセーター姿を自身の[[ブログ]]に掲載し、ファンを大きく沸かせた{{R|メンズサイゾー20170406_p1|J-CASt20170201}}。それをきっかけに、人気グラビアアイドルたちが各々のSNSで、このセーター姿の画像を公開した{{R|メンズサイゾー20170406_p1|メンズサイゾー20181204_p1}}。2017年3月には、[[倉持由香]]がこのセーター姿をブログに掲載し、[[アメーバブログ]]のアクセスランキングで、グラビア部門で3日連続1位を記録した<ref>{{Cite news|和書|language=ja|date=2017-4-8|title=橋本マナミだけじゃない! グラドルたちが試行錯誤する“創意工夫”な撮られ方|newspaper=[[アサ芸プラス]]|publisher=[[徳間書店]]|url=https://www.asagei.com/excerpt/78627 |accessdate=2021-9-6}}</ref>。同3月には[[天木じゅん]]が[[Instagram]]に掲載し、大きな反響を呼んだ<ref name="メンズサイゾー20170307_p1">{{Cite news|title=「裸よりエロい」天木じゅん、衝撃の“童貞を殺すセーター”で国内外の男性たちを悩殺|newspaper=メンズサイゾー|date=2017-3-7|author=佐藤勇馬|url=https://www.menscyzo.com/2017/03/post_13742.html |accessdate=2021-9-6|page=2|language=ja}}</ref>。天木の画像によりこのセーターの注文が急増し、オリジナルのバージョンのセーターは1日で完売した<ref>{{Cite news|title=BUST-HAVE New range of outrageous ‘virgin killer’ jumpers released after first batch of the skimpy sweaters sells out in a DAY|newspaper=[[ザ・サン]]|date=2017-12-13|author=Neal Baker|url=https://www.thesun.co.uk/news/5132238/kinky-jumper-virgin-killer-revealing-back-new-design/ |accessdate=2021-9-7|publisher=News Group Newspapers of News International|language=en}}</ref>。それまではSNSでの公開であったが、[[生放送]]での着用としては、同4月に[[森咲智美]]が[[ニコニコ生放送]]「NEXTアイドルをさがせ」で着用して登場し、放送を盛り上げた<ref>{{Cite news|language=ja|date=2018-1-9|title=“童貞を殺すセーター”アネックス、永井里菜 メイリ 水沢柚乃らが悩殺|newspaper=[[ドワンゴジェイピー]]news|publisher=[[ドワンゴ]]|url=https://news.dwango.jp/gravure/26057-1801 |accessdate=2021-9-6}}</ref><ref>{{Cite news|和書|language=ja|date=2017-4-2|title=“愛人にしたいグラドル”森咲智美が魅せた「DTを殺すセーター」の破壊力|newspaper=ドワンゴジェイピーnews|url=https://news.dwango.jp/gravure/21313-1704 |accessdate=2021-9-6}}</ref>。
俳句のみならず、山本は日本の[[古典]]、[[落語]]、さらには[[イマヌエル・カント|カント]]や[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]といった[[ドイツ]]の[[哲学者]]について語るなどの博識さで、一同を楽しませた{{R|収容所から来た遺書19920610_p81}}。前述の演劇などもしばしば俳句の題材となった{{R|収容所から来た遺書19920610_p126}}。文化部の設置後は、アムール句会は文化部の一環となり、俳句は食堂の壁に貼り出され、山本が添えた赴きのある寸評もあいまって、俳句とは縁のない俘虜たちにも好評を得た{{R|文藝春秋19871001_p352}}。
 
言葉を濁して「例のセーター」と表現されることもあるが{{R|メンズサイゾー20170406_p1}}<ref name="ネタとぴ20170323">{{Cite web|url=https://netatopi.jp/article/1050949.html |title=“○○を殺す”例のセーターがヴィレヴァン通販で発売開始! 価格は税込み5,000円|accessdate=2021-9-6|author=古川敦|date=2017-3-23|website=ネタとぴ|publisher=[[インプレス]]}}</ref>、これは「童貞」「殺す」といった刺激的な言葉を避けているものと考えられている{{R|メンズサイゾー20170406_p1}}。実際、SNS上で「殺す」と発言をすることで、単に[[ファッション]]について呟いているだけであり、脅迫などの意図がないにもかかわらず、AIによりユーザーが自動的に危険なアカウントと見なされてしまう可能性も示唆されている<ref>{{Cite news|title=1万4000人フォロワーいる僕のTwitterが突然凍結された話|newspaper=[[エキサイトニュース]]|date=2017-10-6|author=小山晃弘|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1507268616804/ |accessdate=2021-9-6|publisher=[[エキサイト]]|language=ja}}</ref>。ただしTwitter側は、「凍結の理由など個別の案件について詳細は開示できない」としつつも、「『童貞を殺す服』といったツイートでは凍結されない」と見解を述べている<ref>{{Cite news|title=「絵師アカウント凍結問題」、Twitterが見解の一部示す「凍結の原因は何らかのルール違反」「多数の通報だけでは判断しない」|newspaper=ねとらぼ|date=2017-8-31|author=沓澤真二|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1708/31/news096.html |accessdate=2021-9-8|language=ja}}</ref>。
収容所内では戦後数年を経ても[[日本軍]]の上下関係が幅をきかせていたが、山本はこれを最も嫌い、アムール句会では皆の呼び名を[[俳号]]で通した。このためにアムール句会は階級も肩書きも関係ない穏やかな集いとなり、日本軍の元上官から下級兵、民間人にいたるまで様々な人々が集まった{{Sfn|辺見|1992|p=96}}{{Sfn|三枝|1998|pp=197-198}}。
 
さらにここから派生した言葉として、[[清水あいり]]の特技「{{Visible anchor|童貞を殺す空手}}」がある。幼少時から琉球空手を習っていた清水が、「童貞を殺すセーター」の流行をヒントとして、空手の型を通じて、必要以上に胸を強調したり、スカートで蹴りを繰り出して下着を見せたりするものである<ref>{{Cite journal|和書|date=2019-12-12|title=美女ざんまい「実話劇場」清水あいりインタビュー|journal=[[週刊実話]]|volume=62|issue=47|page=79|publisher=[[日本ジャーナル出版]]|id={{NCID|AA11772601}}|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Weeklyjn_20938/ |accessdate=2021-9-8}}</ref>。
俘虜たちはアムール句会では重労働の辛さを忘れることができ、普段の収容所の厳しい雰囲気が嘘のような別世界であった。その上、苦境の中でも自然を愛する余裕すら生まれ{{R|潮20090901_p143}}、労働中も次の句会で発表する俳句を考える楽しみが生まれるなど、一同は次第に句会の楽しさにのめり込んだ{{R|収容所から来た遺書19920610_p87}}。帰国への希望を失いそうになる俘虜を山本は常に励まし、これにより自殺を思い留まる者もいた{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p245}}。
 
=== 日本国外での反響 ===
[[1952年]](昭和27年)には俘虜たちの何人かが脱走を試みたことで収容所の監視体制が強化され、様々な文化活動や同好会も禁止された上、アムール句会も解散を命じられたが、それでも一同は収容所内の片隅に集まり、密かに句会を催し続けた{{Sfn|辺見|1992|pp=152-157}}。開催数は200回以上にのぼり{{R|文藝春秋19871001_p352}}、最終的には収容者最後の帰国の船内まで開催され続けた<ref name="収容所から来た遺書19920610_p269">{{Harvnb|辺見|1992|pp=269-272}}</ref>。
天木じゅんの2017年3月の投稿に対しては、日本国内のみならず、国外からも、英語やハングル語、中国語などのコメントが殺到した{{R|メンズサイゾー20170307_p1}}。イギリスのニュースサイト『[[ザ・サン]]<ref>{{Cite news|title=Japanese model, 21, with 'anime body' breaks the internet by posing in bizarre 'virgin-killing sweater'|newspaper=ザ・サン|date=2017-3-7|author=Neal Baker|url=https://www.thesun.co.uk/news/3029130/japanese-model-jun-amaki-anime-body-virgin-killing-sweater/ |accessdate=2021-9-7|language=en}}</ref>』『[[:en:Daily Star (United Kingdom)|Daily Star]]<ref name="Daily Star20170313">{{Cite news|title=The 'Virgin Killer sweater' that's coming to Britain|newspaper=[[:en:Daily Star (United Kingdom)|Daily Star]]|date=2017-3-13|author=Rachel O'Donoghue|url=https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/virgin-killing-sweater-jun-amaki-16997023 |accessdate=2021-9-7|publisher=[[:en:Reach plc|Reach plc]]|language=en}}</ref>』でも取り上げられた。この天木の人気を受けて、アジアなど各国の女性がこのセーターを着た多くの画像が、「Virgin Killer sweater」としてSNSに投稿された{{R|Daily Star20170313}}。その後の2019年(令和元年)12月にも、[[ぷにたん]]が[[サンタクロース]]衣装を模したこのセーター姿をInstagramで披露し、国内からの好評に加えて、英語圏からも「You are looking very sexy」「So big!」など、多くの反響が寄せられた<ref>{{Cite news|title=ロリ巨乳・ぷにたん“横乳全開”えちコスプレに海外からも「So big!」|newspaper=[[まいじつ]]|date=2019-12-9|url=https://myjitsu.jp/archives/101896 |accessdate=2021-9-7|publisher=日本ジャーナル出版|language=ja}}</ref>。
 
=== 病魔〜最期考察 ===
「童貞を殺す服」の解釈の一つである「清楚」の点については、実際の童貞の男性より、「肌の露出が多い服装だと、こちらは異常に反応してしまう。そうした姿を相手に見られると、『不快にさせるのでは』と心配してしまう{{R|NEWSY20160805}}」「[[肉食系]]女子は怖いという先入観がある{{R|NEWSY20160805}}」などの意見が寄せられている。また[[心理カウンセラー|心理カウンセリング]]の観点から「処女性を感じる<ref name="NEWSY20160807">{{Cite news|language=ja|date=2016-8-7|title=「童貞を殺す服」なぜ童貞が反応? カウンセラー分析で男性本能が丸裸|newspaper=しらべぇ|url=https://sirabee.com/2016/08/07/149638/ |accessdate=2021-9-6}}</ref>」「互いに似ている部分があれば、好感を抱く{{R|NEWSY20160807}}」「逆に露出の激しい服装や、原色が強い服装の女性は、自分と不釣り合いに感じてしまう{{R|NEWSY20160807}}」、[[ファッションデザイン]]の観点から「露出の少ない服は、母親が娘に求める服装そのものであり、童貞の考えも、母が娘に対して抱く一種の幻想に通じる<ref>{{Cite news|language=ja|date=2016-8-31|title=「童貞を殺す服」はママが娘に着せたい服そのもの? デザイナーに聞いた|newspaper=しらべぇ|url=https://sirabee.com/2016/08/31/154830/ |accessdate=2021-9-6}}</ref>」などとも分析されている。
[[1953年]](昭和28年)5月、山本は喉の痛みを訴え、収容所内の病院に入院{{Sfn|辺見|1992|p=176}}。もともと体が丈夫でなかったことに加え、収容所の悪環境や[[栄養失調]]が祟り、病状は悪化の一途を辿った{{Sfn|三枝|1998|p=207}}{{Sfn|辺見|1992|p=189}}。翌1954年2月に設備の整ったハバロフスク市内の中央病院へ転院するが、[[喉頭癌|喉頭癌性肉腫]]、それも末期の[[がん]]で手遅れと診断され、翌日には収容所へ戻された{{R|収容所から来た遺書19920610_p205}}。
 
一迅社の『童貞を殺す服の描き方』では、男性はミニスカートや胸の谷間が目立つ服など、女性に対して露出の多さを好む一方で、交際相手や配偶者の素肌を他の男性に見られたくないという願望があるとして、清楚な服装は「自分に一途であってほしい」の思考が現れたものだと分析されている{{Sfn|一迅社|2016|p=38}}。またハイウェストが「童貞を殺す服」の例の一つとされることについて一迅社は、ハイウェストの輪郭が女児服や幼児服を彷彿させるため<ref name="童貞を殺す服の描き方_p27">{{Harvnb|一迅社|2016|p=27}}</ref>、と分析している。幼児体形は腰にくびれがないために保持が困難で、胸の下あたりで衣服を保持する必要があり、ハイウェストはそれに似た雰囲気があるために、外見が幼さを感じ、その服を着ている者を保護したいとの欲を刺激される{{R|童貞を殺す服の描き方_p27}}、という解釈である。
同1954年7月、病状が既に絶望的となった頃に仲間たちに勧められ、日本の母、妻子に宛てて遺書を書き残した。翌月の8月25日、収容所内の病室で死去。没年齢45歳。仲間たちは作業中の時間帯だったため、誰にも看取られることのない孤独な最期であった{{R|収容所から来た遺書19920610_p238}}。
 
2018年(平成30年)頃には、単に露出度の高めなニットや[[水着]]までもが「童貞を殺す」と呼ばれるようになった{{R|ガジェット通信20180619}}。そうした風潮に対して違和感を覚え、「単に露出度の高い服は『童貞を殺す服』とはいえない」との意見もある{{R|ガジェット通信20180619}}。「童貞を殺す」という言葉が「女性に耐性がない童貞にとって刺激が強い」との意味で使われていることに対して<ref name="TABLO20201107_p2">{{Cite news|title=最新型「童貞を殺すセーター」が極エロと話題に しかし、童貞が反発「それじゃ、童貞は殺せない」|newspaper=[[TABLO]]|date=2020-11-7|author=デューク・テルゴ|url=https://tablo.jp/archives/35129 |accessdate=2021-9-8|publisher=[[ロフトプロジェクト ]]|page=2|language=ja}}</ref>、「エロティシズムの過度な服は、童貞が見るとかえって萎える」とし、「童貞を殺す」との言葉に疑問を唱える意見もある<ref>{{Cite news|title=最新型「童貞を殺すセーター」が極エロと話題に しかし、童貞が反発「それじゃ、童貞は殺せない」|newspaper=TABLO|date=2020-11-7|author=デューク・テルゴ|url=https://tablo.jp/archives/35129 |accessdate=2021-9-8|page=3|language=ja}}</ref>。また、話題に上った当時の画像があまりに盛り上がりすぎたことで、「本人は好きだから着てるだけ」「変なイメージがついて着れなくなるのは嫌だ」と自重を促す声もある{{R|ねとらぼ20200707}}。
== 没後 ==
=== 遺書 ===
山本を慕う仲間たちは、帰国への希望を与えてくれた彼への恩返しとして、彼の遺書を日本の遺族のもとへ届けることを熱望した{{R|潮20090901_p143}}。しかし収容所では、日本語を書き残すことはスパイ容疑と見なされており、ほぼ不可能であった。帰国時に隠し持っていても所持品検査で発見されれば収容所へ逆戻りとなり、帰国の希望は完全に断たれてしまう<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p230">{{Harvnb|三枝|1998|pp=230-235}}</ref>。事実、帰国の機会を得たにも関わらず、隠し持っていた日本語の書物を没収されて収容所に逆戻りした者や<ref name="収容所から来た遺書19920610_p242">{{Harvnb|辺見|1992|pp=242-243}}</ref>、新たに10年の刑が加重された者<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p243">{{Harvnb|三枝|1998|pp=243-246}}</ref>、重労働25年の刑を受けた者もいた<ref>{{Cite book|和書|author=[[梯久美子]]|title=百年の手紙 日本人が遺したことば|date=2013-1-22|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|isbn=978-4-00-431408-0|page=232}}</ref>。山本自身もそれを理解していたと見えて、全文を暗記して日本の家族のもとに伝えるよう、仲間たち宛てに遺書に書き添えられていた{{R|収容所から来た遺書19920610_p242}}<ref name="山本顕一ホームページ_遺書">{{Cite web|url=http://www.br4.fiberbit.net/ken-yama/www.br4.fiberbit.net_ken-yama/shan_ben_fan_nan.html |title=遺書|accessdate=2015-8-25|publisher=[http://www.br4.fiberbit.net/ken-yama/www.br4.fiberbit.net_ken-yama/Welcome.html 山本顕一のホームページへようこそ!] <!-- |archiveurl=https://archive.is/LVajJ |archivedate=2015-8-25 --> }}</ref>。
 
同様に「童貞を殺すセーター」についても、過多なエロティシズムから「万人に対して殺傷能力あり」などと、「童貞を殺す服」の定義に当てはまっていないと指摘する声も多い{{R|おたぽる20170219}}。当初の「童貞を殺す服」の定義とは真逆になったために、「童貞を殺す服」の使われ方が曖昧になったとの意見もある{{R|ねとらぼ20200707}}。[[悠木ゆうか]]が2017年1月に「童貞を殺すセーター」「童貞を殺す服」というハッシュタグ付きで、このセーターを着た姿をTwitterで披露した際には、「童貞じゃなくても死んでしまう」との多くの反響があった{{R|おたぽる20170219}}。2020年(令和2年)にAV女優の[[桃園怜奈]]がセーター姿を披露した際にも、「可愛いすぎる」などの好評の一方で<ref>{{Cite news|title=最新型「童貞を殺すセーター」が極エロと話題に しかし、童貞が反発「それじゃ、童貞は殺せない」|newspaper=TABLO|date=2020-11-7|author=デューク・テルゴ|url=https://tablo.jp/archives/35129 |accessdate=2021-9-8|page=1|language=ja}}</ref>、「童貞を殺す場合は逆に露出は控えた方が良い」として、むしろ童貞にとっては受けが悪いとする意見も寄せられた{{R|TABLO20201107_p2}}。
告別式の後、アムール句会の出席者を始めとして、山本と親しい者、信頼のおける者、体力のある者、記憶力に長ける者、計6人が分担して、遺書を暗記することになった{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p243}}<ref>{{Cite news|和書|language=ja|date=2020-3-30|title=終戦から12年後の1957年、埼玉県の山本モジミさん宅を見知らぬ男性が訪れた…|newspaper=[[西日本新聞]]|edition=朝刊|publisher=[[西日本新聞社]]|page=1}}</ref>。一同はそれぞれ、遺書の一部を紙片に書き写して隠し持ち、作業中に監視の目を盗みつつその文面を暗唱して頭に叩きこむ方法をとった<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p232">{{Harvnb|三枝|1998|pp=232-235}}</ref><ref name="収容所から来た遺書19920610_p246">{{Harvnb|辺見|1992|pp=246-248}}</ref>。作業後も貴重な睡眠時間を削って暗記に費やし、その記憶を遺書の写しと照合しながら、山本からの依頼通り、一字一句洩らさない完璧な暗記を目指した{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p232}}<ref name="最後の手紙199009_p170">{{Harvnb|立川|1990|pp=170-174}}</ref>。帰国は何年先、何十年先になるかもわからない、気の遠くなる作業であった{{R|収容所から来た遺書19920610_p246}}。
 
[[1955年]](昭和30年)には、俘虜たちが初めて団結して収容所側に対抗する「ハバロフスク事件<ref>{{Cite web|url=http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/siberia/02-01.html|title=今見るシベリア矯正抑留の真実|accessdate=2015-8-25|author=[[中村紀雄]]|publisher=[http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/ 群馬県議会議員 中村紀雄]|archiveurl=https://archive.is/XHavI|archivedate=2015-8-25|deadlinkdate=2018年4月16日}}</ref>」が勃発。俘虜たちは[[ハンガー・ストライキ]]を決行したが、空腹で頭の動きが虚ろになる中でも、山本の遺書の暗記担当者たちは遺書の内容を復唱していた{{Sfn|辺見|1992|pp=256-260}}。同年に日本宛てに山本の死を報せる電報が送られ、日本に残された妻である山本モジミのもとに届けられた<ref name="収容所から来た遺書19920610_p277">{{Harvnb|辺見|1992|pp=277-280}}</ref>。
 
翌[[1956年]](昭和31年)4月頃には、ハバロフスク事件を経て収容所内の環境がかなり改善されたが、同事件の影響で俘虜たちは明らかに衰弱し、記憶力も低下。日本語を言い間違えることも多くなった{{Sfn|辺見|1992|pp=260-263}}。極寒の環境下での重労働と栄養失調も記憶力の低下に拍車をかけ、故郷や家族の名を忘れる者も続出{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p232}}。さらに遺書の暗記担当者の何人かは、隠し持っていた遺書の写しが発見されて没収され、暗記内容の照合も不可能となったが、それでもなお彼らは自らの記憶力と戦い続けていた{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p232}}。日本では戦後の復興が進み、すでに「[[経済白書|もはや戦後ではない]]」が流行語となった時代であった<ref name="アンビリバボー201308">{{Cite web|url=http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/130815_1.html |title=収容所から来た遺書|accessdate=2015-8-25|date=2013-8|website=[[奇跡体験!アンビリバボー]]|publisher=[[フジテレビジョン]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130822190648/http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/130815_1.html |archivedate=2013-8-22|deadlinkdate=2015年8月25日}}</ref>。
 
そして山本の死から2年以上後、終戦から11年目にあたる同年12月に[[日ソ共同宣言]]が発効され、シベリア抑留者の最後の帰国が実現した<ref name="収容所から来た遺書19920610_p263">{{Harvnb|辺見|1992|pp=263-268}}</ref>。日本を目指す引き揚げ船の[[興安丸]]の船内で、7年以上続いたアムール句会の最後の句会が開かれた{{R|収容所から来た遺書19920610_p269}}。
 
翌[[1957年]](昭和32年)1月、遺書の暗記担当者の1人が、当時[[埼玉県]]在住であった山本モジミのもとを訪ね、暗記をもとに代筆により再現した遺書の一部を届けた。これによりモジミは、遺書にまつわる一連の経緯を知ることになった。これを皮切りに同年のうちに計6人が、ある者は直接モジミのもとを訪ね、ある者は郵送や小包で、復元した遺書を届けた。山本が収容所で作った俳句や詩も、合せて彼らによりモジミに届けられた{{R|収容所から来た遺書19920610_p277}}。
 
[[1961年]](昭和36年)、戦後初の[[シベリア]]墓参に、モジミは代表者の1人として山本の遺書を携えて参加。初めての夫の墓参りで、仲間たちに託された遺書が無事に自分のもとに届いていることを報告した<ref>{{Cite book|和書|author=[[辺見じゅん]]|title=レクイエム・太平洋戦争 愛しき命のかたみに|date=1994-10|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-54499-1|pages=152-153}}</ref><ref name="ひと裁ち折りと山本厚生の世界_p62">{{Harvnb|山本|2012|pp=62-64}}</ref>。そして山本の死から30年以上経った[[1987年]](昭和62年)夏、最後の遺書がモジミのもとに郵送された。奇しくも山本の[[年忌|三十三回忌]]の盆に当たる日であった<ref name="収容所から来た遺書19920610_p285">{{Harvnb|辺見|1992|pp=285-287}}</ref>。
 
==== 暗記以外でも届けられた遺書 ====
山本の遺書は暗記で日本へ届けられたというエピソードがしばしば紹介されるが、実際には暗記以外の手段も用いられている。一例として暗記担当者のうちの何人かは帰国時、遺書の写しを衣服に隠して身に付けたり、遺書の写しを丸めたものに糸を巻きつけて糸巻に偽装して所持品検査をやり過ごすなどして、収容所へ逆戻りになることを覚悟で日本へ持ち帰ることに成功している{{Sfn|辺見|1987|pp=367-368}}<ref>{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]ほか|title=13歳からの道徳教科書|date=2012-2-10|publisher=[[育鵬社]]|isbn=978-4-594-06552-2|page=52}}</ref>。
 
また、1955年に[[日本社会党|社会党]]訪ソ団7名がハバロフスクの収容所を訪れた際、俘虜の1人が山本の遺書の写しを、訪ソ団員の1人である当時の[[国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]・[[戸叶里子]]に託しており、戸叶は帰国の翌日に山本モジミにこれを届けた<ref name="文藝春秋19871001_p364">{{Harvnb|辺見|1987|pp=364-367}}</ref>。暗記担当者の中に戸叶に接した者はおらず、山本は遺書を確実に日本へ届けるためにあらゆる手段をとったと見られている{{R|文藝春秋19871001_p364}}。この事実は、山本を綴ったことで知られる後述の書籍『[[#CITEREF辺見1992|収容所から来た遺書]]』では伏せられているために知名度が低いものの{{R|ひと裁ち折りと山本厚生の世界_p62}}、その原典である『[[#CITEREF辺見1987|ラーゲリからの遺書配達人]]』(『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』掲載)には述べられており{{R|文藝春秋19871001_p364}}、山本の次男である山本厚生の著書『ひと裁ち折りと山本厚生の世界{{R|ひと裁ち折りと山本厚生の世界_p62}}』、フジテレビのテレビ番組『[[奇跡体験!アンビリバボー]]{{R|アンビリバボー201308}}』で山本が取り上げられた際にも触れられている。また当時の『[[朝日新聞]]<ref>{{Cite news|language=ja|date=1995-10-8|title=ソ連抑留者の遺品など還る 議員団に抱かれて|newspaper=[[朝日新聞]]|edition=朝刊|publisher=[[朝日新聞社]]|page=7}}</ref>』『[[毎日新聞]]<ref>{{Cite news|language=ja|date=1955-10-7|title=妻子慕いて綴る涙の遺書|newspaper=毎日新聞|edition=夕刊|page=3}}</ref><ref>{{Cite news|language=ja|date=1995-10-8|title=夫の便り、父の遺品 待ちわびた留守家族へ|newspaper=毎日新聞|edition=朝刊|page=7}}</ref>』でも報道されており{{R|ひと裁ち折りと山本厚生の世界_p62}}、暗記担当者の1人は帰国直後、先に帰国したシベリア抑留の同志から、すでに遺書が日本へ届いていることを聞かされたという{{Sfn|辺見|1987|p=368}}。それでも収容所での苦境の中、遺書を暗記することが彼らの生きる支えとなっていたことは確かである{{R|アンビリバボー201308|収容所から来た遺書19920610_p263}}<ref>{{cite mailing list|url=http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag/267.html |title=「骨を洗う」人 |date=2011|accessdate=2015-8-25|mailinglist=[[考える人 (雑誌)|考える人]]|author=河野通和|archiveurl=https://archive.is/Cet88 |archivedate=2015年8月25日}}</ref>。
 
=== 建造物 ===
{{画像提供依頼|顕彰碑|date=2019年8月|依頼ページ=Portal:日本の都道府県/島根県/画像提供依頼|cat=隠岐郡}}
[[ファイル:Nishinoshima Furusatokan ac.jpg|thumb|西ノ島ふるさと館]]
[[#関連作品|後述]]する『収容所から来た遺書』で山本の逸話が広く知られるようになった後、[[1998年]](平成10年)に故郷である島根県西ノ島町に「山本幡男を顕彰する会」が結成され、人間愛の物語と平和の大切さの語り継ぎを始めた{{R|読売20000829m_p25}}。[[2000年]](平成12年)には同会により、西ノ島町の国賀海岸に山本の顕彰碑が建立された。この碑はシベリアに向けて建てられており、山本の詠んだ詩や経歴などが刻まれている{{R|読売20000829m_p25}}<ref>{{Cite web|url=http://www.oki-geopark.jp/course/nishinoshima/ |title=西ノ島コース|accessdate=2015-8-25|publisher=[http://www.oki-geopark.jp/ 隠岐世界ジオパーク]|archiveurl=https://archive.is/cA9JM |archivedate=2015-8-25|deadlinkdate=2018年4月16日}}</ref>。
 
また西ノ島の展示館「西ノ島ふるさと館」には「山本幡男資料室」が設けられ、山本に関する資料<ref>{{Facebook post|okikan|486306408131202}}</ref>、山本の遺書<ref>{{Cite web|url=https://nkk-oki.com/japan/information/nishinoshima-furusatokan/|title=西ノ島ふるさと館|accessdate=2020-8-31|date=2020|publisher=[[西ノ島|西ノ島観光協会]]}}</ref>、山本家の寄贈による遺品{{Sfn|辺見|2008|p=240}}、山本が故郷の隠岐を想って作った詩の全文などが展示されている<ref>{{Cite web|url=https://nkk-oki.com/japan/wp-content/uploads/2016/03/oyamamap.pdf |format=PDF |title=まちあるきマップ 西ノ島 大山|accessdate=2021-10-22|date=2016-3|page=1|publisher=西ノ島観光協会}}</ref>。
 
== 評価 ==
=== 人物評 ===
後述の『収容所から来た遺書』の著者であるノンフィクション作家の[[辺見じゅん]]は、歴史年表にその名が乗るような人物よりも、無名の庶民こそが真の勇気の持ち主にして学ぶべき英知の持ち主であり、山本をその典型例としている{{R|潮20090901_p143}}。
{{Quotation|非力もかえりみず偉大なる凡人の生涯、それもシベリアの地で逝った一人の男の肖像を描きたいと思ったのは、その不屈の精神と生命力に感動したからに他ならない。過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとはどういうことかを、取材しながら教えられた思いでいっぱいである。|辺見じゅん「三十三年目に届いた遺書」|{{Harvnb|辺見|1992|p=268}}より引用}}
{{Quotation|山本幡男という、一般にはまったく無名であった一人の日本人。彼は、シベリアの収容所生活という逆境にあっても、自らの信念を最後までつらぬいた。その姿の中にこそ、歴史に学ぶ「逆境に打ち克つ」知恵が見てとれる。|辺見じゅん「収容所から来た遺書」|{{Harvnb|辺見|2009|p=144}}より引用}}
{{Quotation|
収容所という地獄の中に、山本さんは「文化の力」を持ち込み、その力と自らの「人格の力」によって、絶望を希望に変えたのである。
 
(中略)
 
山本さんがシベリアの収容所で成した人知れぬ偉業は、「文化の力」の素晴らしさを私たちに改めて教えてくれる。|辺見じゅん「絶望を希望に変える『文化の力』」|{{Harvnb|辺見|2009|p=146}}より引用}}
 
{{Quotation|私たちも逆境に置かれ、「もうだめだ」と思うことがたびたびあります。山本さんは、いつも「人生っていうのは生きているだけで楽しいことがあるんだよ」ってことを言うんですね。私は読んでいて、とても力づけてもらえた。収容所は悲惨なのに、山本さんという人物のいるところにだけはボーッと明かりが灯っている。そして、私たちはどんなに辛いときがあっても、生きるんだ、しかも人間らしく生きていけるのだという希望を与えてくれる。そこがすばらしいと思うのです。|辺見じゅん「アムール句会」|{{Harvnb|鈴木編|1991|p=162}}より引用}}
 
『収容所から来た遺書』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した際に選考委員を務めたノンフィクション作家の[[柳田邦男]]は、過酷なシベリア抑留の中でも気高く精神性豊かに生き抜こうとした人物として山本を評価している{{Sfn|柳田|2013|p=116}}。
 
山本と同じ収容所にいた元俘虜たちのうち、アムール句会に出席して山本と接した者たちは、句会を通じて山本から教わったことや彼の人間性などについて、以下のように語っている。
{{Quotation|山本さんが私たちに教えてくれたのは、俳句だけではありません。どんなに辛い境遇に置かれても、大切なのは人間としていかに誠実に生きるかということでした。|「シベリア抑留と収容所での山本幡男」|{{Harvnb|三枝|1998|p=247}}より引用}}
{{Quotation|収容所という、人間性が閉ざされる逆境の中でも、山本さんは「どんなにつらいことがあっても、生きて帰るという希望を持ちつづけることがたいせつなんだ。死にたいと思ったらおしまいなんだ」と教えてくれました。私は、逆境を耐え抜く力を山本さんから学ばせてもらいました。|「絶望を希望に変える『文化の力』」|{{Harvnb|辺見|2009|p=146}}より引用}}
{{Quotation|山本さんは不思議な人だったな。体も弱く、釘一本打てないような不器用な人なのに、よく収容所を転々として生きのびてきたと思う。不思議な強さと甘さをもった人でした。|「ろんろんという海也の音」|{{Harvnb|辺見|1990|p=342}}より引用}}
 
またアムール句会の別の者は山本との交流の楽しさについて、以下の通り語っている。
{{Quotation|刑をもらってからの六年間のほうが、ずっと楽しかったですね。どうかすると日本に帰ってからの生活より、向こうの方がかえってこの世ではありえないようなユートピアみたいなものがありました。|「ラーゲリに死す」|{{Harvnb|桜井|2005|p=186}}より引用}}
 
同じくアムール句会の別の者は、帰国後に年齢を経てからの再就職、シベリア抑留経験者への心無い差別で多くの苦難を経験したにもかかわらず、山本の存在によってそれらを乗り越えたことを語っている。
{{Quotation|どんなにつらいことがあっても、シベリアでの日々を思えば耐えられました。それもまた、山本さんが私たちにくれた「力」なのです。|「絶望を希望に変える『文化の力』」|{{Harvnb|辺見|2009|p=146}}より引用}}
 
山本は博識な上に温厚な性格により収容所では厚い人望を得<ref name="テレビは戦争をどう描いてきたか_p183">{{Harvnb|桜井|2005|pp=183-189}}</ref>、多くの人々に慕われた。その人間性を語るエピソードとして、強制収容所の俘虜が収容所外の病院に入院することは本来は規則で禁じられていたが{{Sfn|辺見|1992|p=190}}、それにもかかわらず山本が入院後にハバロフスク市内の中央病院へ転院できたのは、仲間たちの度重なる請願によるものである{{Sfn|山本|2012|p=61}}。また末期がんで手遅れと診断された後も、仲間たちは帰国の日まで山本の命を繋ごうと、非合法で入手した[[鶏卵]]や[[牛乳]]など栄養のある食料、さらに日本から自分たち宛てに慰問品として届けられた貴重な日本食を山本へ差し入れ、厳しい作業の合間を縫って看病を続けたという{{Sfn|辺見|1992|pp=217-218}}{{Sfn|三枝|1998|p=215}}。
 
=== 句会・俳句 ===
辺見じゅんは、俳句には春夏秋冬の[[季語]]があり、春は故郷の山や川などの景色、夏は蛍狩りや盆祭りなどで日本の肉親たちを連想することから、日本語を忘れず、帰国への希望を失わない手段として山本が俳句を用いたことを評価している{{R|90年代を生きるために_p240}}<ref>{{Cite journal|和書|author=辺見じゅん|date=2006-8-15|title=日本人の美学 アムール句会|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|volume=84|issue=10|publisher=文藝春秋|page=55|id={{NCID|AN00278208}}}}</ref>。また辺見が出席者たちに取材したところによれば、アムール句会は単なる娯楽というよりも生きる希望そのものであり、帰国への希望に直結していたという{{R|潮20090901_p143}}。
 
前述の柳田邦男は、山本の作った俳句や詩について以下の通り評価している。
{{Quotation|山本の句や詩には、いのちの叫びとでも言うべき凄みがある。プロの俳人でも詩人でもなかったが、やはり限界状況の中で生き抜こうとしている人間、いつも死を意識しながら生き抜こうとしている人間から湧き出してくる言葉は血のしたたるような臭いがまつわりついている。|柳田邦男「海なりの詩を掬って」|{{Harvnb|柳田|2013|p=116}}より引用}}
 
また柳田は、詩歌という韻を持つ言語表現による自己確認が、同志たちとの相互確認の営みとあいまいって、劣悪な環境下での限界条件において、俘虜たちが生きようとする力と希望を持ち続けたことの源泉となったとも語っている<ref>{{Cite journal|和書|author=[[柳田邦男]]ほか|date=1990-5-1|title=第21回 大宅壮一ノンフィクション賞発表|journal=文藝春秋|volume=68|issue=6}}</ref>。
 
[[毎日新聞社]]大阪本社論説委員である渡辺悟は、厳寒のシベリアの環境下で日本の子供たちを想う山本の句を引き、ギリギリのユーモアに俳句の力、人間の力が凝縮されていると評価している{{R|渡辺}}。
 
アムール句会の出席者の1人は山本に、歌人・[[前田夕暮]]の代表歌「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」を勧められ、これを暗唱するうちに帰国後に結婚式を挙げようと決心し、実際に帰国後に結婚に至っている{{R|テレビは戦争をどう描いてきたか_p183}}。
 
=== 遺書の評価 ===
文面については[[#外部リンク]]を参照{{R|山本顕一ホームページ_遺書}}。
 
山本の遺した遺書は、死の間際に視力も薄れ{{R|最後の手紙199009_p170}}、寝返りも打てないほどの激痛の最中、わずか1日で書いたにもかかわらず、ノート15ページ、約4500字に及ぶ長文であった{{Sfn|辺見|1992|p=223}}{{Sfn|辺見|1992|p=233}}。衰弱の中で最後の力を振り絞ってそれほどの長文を書きあげた山本に、仲間たちは執念を感じた{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p230}}。また仲間たちは遺書の内容に、シベリアで空しく死んでいったすべての人たちの想いが籠められていると感じ{{R|語り継がれる戦争の記憶199802_p230}}、山本個人の遺書であると同時に自分たちの遺書でもあり{{R|昭和の遺書198708_p451}}、収容所で死んだ日本人全員が祖国のすべての日本人たちに宛てた遺書として受け取った{{R|収容所から来た遺書19920610_p242|最後の手紙199009_p170}}。
 
辺見じゅんは、『収容所から来た遺書』執筆のきっかけとなった遺書について、以下のように感想を語っている。
{{Quotation|後になって知ったことだが、字数にして約四千五百字、それも癌で亡くなる一ヵ月半前に一晩で書かれたものだった。驚嘆すべき生命力であり、これを書かねば死ぬに死ねないといった一人の男の凄まじい執念の結晶だった気がする。
 
(中略)
 
その遺書の一通ずつに私は引き込まれた。老いた母親に先立ってゆく不孝を詫びる息子としての切々とした思い。妻のモジミさんに子等を託す夫としての信頼と感謝にみちた遺書。それらに胸が熱くなったが、何よりも心を動かされたのは、四人の子供たちに宛てられた遺書だった。ああ、これは山本さんの子供たちに宛てた遺書というだけでなく、私たち日本人の全てに向けられた遺書であり、力強いメッセージではなかろうかとさえ思った。|辺見じゅん「山本幡男の遺書との出会い」|{{Harvnb|辺見|1990|pp=339-340}}より引用}}
 
その子供たちのうちの1人、長男の山本顕一([[立教大学]]名誉教授)は、大学生当時に遺書を読んだときの感想をこう述べている。
{{Quotation|こんなに大きなものを受け取って、むしろ困った。これに応えなければ、とこれまで生きてきた。
 
(中略)
 
私がすべきことを皆、辺見さんがしてくださった。辺見さんが父の遺書を見つけたのは、父の言葉が世に知られることを欲していたからではないか。|山本顕一|「夕鶴 辺見じゅんの足跡」|{{Harvnb|読売新聞|2013|p=31}}より引用}}
 
美術家の[[太田三郎 (芸術家)|太田三郎]]は、兵庫県の[[西宮市大谷記念美術館]]で回顧展「2000-2001 太田三郎」開催時、山本の遺書を書き写した作品『最後に勝つものはまごころである』を出展しており、同展で最も反響を呼んだ作品がこれであった<ref name="山形新聞20080223_p7">{{Cite news|language=ja|author=[[太田三郎 (芸術家)|太田三郎]]|date=2008-2-23|title=アートフロンティア・美術 最後に勝つものはまごころである|newspaper=[[山形新聞]]|publisher=山形新聞社|page=7}}</ref>。「最後に〜」は山本が遺書において、子供たちに宛てた箇所の1節だが、太田はこれを何度も書き間違えそうになったことから、遺書を暗記した者たちの凄まじい気力を実感するとともに、命がけで暗記する価値のある文章だと理解したという{{R|山形新聞20080223_p7}}。
 
== 著作 ==
* {{Cite book|和書|title=東部シベリア地方自然地理概觀|date=1936-9|publisher=[[南満州鉄道]]|ncid=BA3387963X}}(共著)
* {{Cite book|和書|title=露文英文滿洲支那財政金融關係資料邦譯目録|date=1937-4|publisher=南満州鉄道|ncid=BA41913755}}(共著)
* {{Cite book|和書|title=ソ聯邦諸民族の分布状態|date=1937-4|publisher=南満州鉄道|ncid=BN09811303}}
* {{Cite book|和書|title=北東アジアの諸民族|date=1941-8|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=東亞新書|ncid=BN06084359}}
 
== 関連作品 ==
=== 書籍 ===
* 『[[#CITEREF辺見1987|ラーゲリからの遺書配達人]]』
** 雑誌「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」で1987年(昭和62年)に発表された中編作品{{R|文藝春秋19871001_p348}}。[[1986年]](昭和61年)に[[角川書店]]と[[読売新聞社]]が共同で「昭和の遺書」を募集した際、山本モジミが夫からの遺書を投稿{{R|潮20090901_p143|収容所から来た遺書19920610_p285}}。同企画の編集を務めた辺見じゅんがこれに目に留めたことをきっかけに、山本らの収容所での生活と遺書の経緯を綴った作品である{{R|文藝春秋19871001_p348}}{{Sfn|黒田|1990|pp=234-235}}。
 
* 『[[収容所から来た遺書|収容所(ラーゲリ)から来た遺書]]』
** 上記の『ラーゲリからの遺書配達人』から約2年を経て書籍化され、1989年(平成元年)に刊行された。同年の[[講談社ノンフィクション賞]]を受賞し、翌1990年(平成2年)には[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞した{{R|読売新聞20131031m_p31}}。2019年(令和元年)5月には、フランス文学者の[[宮下志朗]]が「平成時代の本のベスト5」の1つとして本書を選んでいる<ref>{{Cite news|和書|language=ja|author=[[宮下志朗]]|date=2019-5-29|title=平成ベスト本 宮下志朗さんが選ぶ 風俗小説 + 私小説 + 新聞小説|newspaper=朝日新聞|edition=東京夕刊|page=3}}</ref>。
 
* 『[[#CITEREF辺見2008|ダモイ 遥かに]]』
** 2008年(平成20年)に発行された小説{{R|潮20090901_p143}}。著者は同じく辺見じゅん。『収容所から来た遺書』執筆時はシベリアの取材許可が得られなかったが、その後の世界情勢の変化により現地取材が叶ったことで、『収容所から来た遺書』に新たな取材内容を加味して{{Sfn|辺見|2008|pp=236-237}}、小説仕立てとして発行された{{R|潮20090901_p143}}<ref name="ダモイ_遥かに_p238">{{Harvnb|辺見|2008|pp=238-239}}</ref>。小学校高学年以上の読者を対象としているため、山本の手紙は現代かなづかいに改められ、ふりがなも多く振られている{{R|ダモイ_遥かに_p238}}。
 
=== 漫画 ===
* 『[[#CITEREF三枝1998|収容所から来た遺書]]』
** 辺見の『収容所から来た遺書』の漫画化。作画は[[三枝義浩]]。1997年(平成9年)に、三枝の漫画連作『[[語り継がれる戦争の記憶]]』の1作として、[[週刊少年マガジン]]の第50号、第51号に掲載された{{Sfn|三枝|1998|p=250}}。
 
* 『ラーゲリ〈収容所から来た遺書〉』
** 同じく『収容所から来た遺書』の漫画化<ref name="文藝春秋20210824">{{Cite press release|title=極寒、飢餓、重労働に屈しなかった男たちの物語。 辺見じゅんの大宅賞受賞作を感動コミカライズ。 『ラーゲリ〈収容所から来た遺書〉』が連載開始!|publisher=[[文藝春秋]]|date=2021-8-25|url=https://www.atpress.ne.jp/news/272811 |accessdate=2021-8-26}}</ref>。作画は[[河井克夫]]{{R|文藝春秋20210824}}。2021年(令和3年)8月から、[[文藝春秋]]のウェブサイト「[[文春オンライン]]」で連載が開始された{{R|文藝春秋20210824}}。
 
=== テレビ ===
* 『遥かなるダモイ 収容所(ラーゲリ)から来た遺書』
** 辺見の『収容所から来た遺書』をもとにしたドキュメンタリー番組。[[テレビ西日本]]の取組による「戦争と平和シリーズ」の一つであり<ref>{{Cite news|和書|title=ニューギニア戦に迫る、TNC制作の「螢の木」、全国放送へ|newspaper=西日本新聞|edition=夕刊|date=1997-9-16|page=13|language=ja}}</ref>、シリーズ前作に続いて女優の[[藤村志保]]がナレーターを務めた<ref name="西日本新聞19900516e_p6">{{Cite news|和書|title=TNCが「遥かなるダモイ」-収容所から来た遺書-制作|newspaper=西日本新聞|edition=夕刊|date=1990-5-16|page=6|language=ja}}</ref>。『収容所から来た遺書』をもとに構成された内容に加えて、山本モジミが30年ぶりに冬のシベリアを訪れ、2度目の夫の墓参りをする場面も収められている{{R|西日本新聞19900516e_p6}}。テレビ西日本で1990年(平成2年)に放映され、同年度の[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術作品賞]]を受賞した{{R|テレビは戦争をどう描いてきたか_p183}}<ref>{{Cite web|url=http://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsusai/pdf/s61_h7.pdf |title=昭和61年度(第41回)芸術祭賞授賞一覧|accessdate=2015-8-25|format=PDF|publisher=[[文化庁]]|page=5}}</ref>。
 
* 『[[収容所から来た遺書#テレビドラマ|収容所(ラーゲリ)から来た遺書]]』
** 『収容所から来た遺書』のテレビドラマ化。終戦48年特別企画作品<ref>{{Cite news|和書|title=放送文化基金賞決まる|newspaper=毎日新聞|edition=東京朝刊|date=1994-5-26|page=26|language=ja}}</ref>。主演(山本幡男役<ref name="週刊文春19930211_p208">{{Cite journal|和書|date=1993-2-11|title=ガッツ石松がシベリアの収容所で強制労働?|journal=[[週刊文春]]|volume=35|issue=6|pages=208-209|publisher=[[文藝春秋]]|id={{NCID|AN10074736}}}}</ref>)は[[寺尾聰]]<ref>{{Cite web|url=https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=129910 |title=金曜エンタテイメント 終戦48年特別企画 収容所(ラーゲリ)から来た遺書|accessdate=2021-12-4|website=放送ライブラリー|publisher=[[放送番組センター]]}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-29639 |title=収容所から来た遺書|accessdate=2021-12-4|website=[[テレビドラマデータベース]]}}</ref>。冬季のシベリアの場面は北海道で撮影され、俘虜の衣服はロシアで入手した当時のものが使用された{{R|週刊文春19930211_p208}}。1993年(平成5年)に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で[[金曜エンタテイメント]]枠で放映され、翌1994年(平成6年)に第20回[[放送文化基金賞|放送文化基金賞]]のテレビドラマ本賞を受賞した<ref>{{Cite news|和書|title=テレビ番組企画選奨に大阪の平岡磨紀子さんが入選|newspaper=朝日新聞|edition=東京朝刊|date=1994-5-26|page=29|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=放送文化基金賞決まる|newspaper=毎日新聞|edition=東京朝刊|date=1994-5-26|page=26|language=ja}}</ref>。同1994年8月にも終戦50周年として再放送された<ref>{{Cite news|和書|title=「終戦記念日」ドラマ、報道番組が続々 市井の人にスポット「50周年」企画も|newspaper=読売新聞|edition=東京夕刊|date=1994-8-2|page=9|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=49回目の終戦記念日 各局“熱い夏の日”を特集|newspaper=[[産経新聞]]|edition=東京夕刊|date=1994-8-6|page=4|publisher=[[産業経済新聞社]]|language=ja}}</ref>。一方で評論家の[[麻生千晶]]は、山本幡男本来の豊かな教養が作中では平易な表現となり、実話をもとにしたはずのシベリアの情景にも不自然さが目立つとして批判している<ref>{{Cite journal|和書|author=[[麻生千晶]]|date=1993-9-2|title=たかが、されどテレビ|journal=[[週刊新潮]]|volume=38|issue=33|pages=98-99|publisher=[[新潮社]]|id={{NCID|AN1016794X}}}}</ref>。
 
=== 舞台 ===
* 『妻よ母よ子供等よ!』
** 辺見の『収容所から来た遺書』をもとにした[[劇団東演]]の舞台作品。劇作家の[[ふじたあさや]]により、遺書を届ける友人と受け取る妻の2人芝居に脚色されている<ref name="読売新聞19940407e_p10">{{Cite news|和書|title=「収容所の遺書」を2人芝居で 劇団東演が「妻よ母よ子供等よ!」|newspaper=読売新聞|edition=東京夕刊|date=1994-4-7|page=10|language=ja}}</ref>。1994年(平成6年)に東京都下北沢の劇場である東演パラータで上演され{{R|読売新聞19940407e_p10}}<ref>{{Cite news|和書|title=劇団東演公演「妻よ母よ子供等よ!」|newspaper=朝日新聞|edition=東京夕刊|date=1994-4-1|page=8|language=ja}}</ref>、大きな反響を呼んだ<ref name="パッション19950611_p2">{{Cite journal|和書|author=中島一|date=1995-6-11|title=妻よ母よ子供等よ!|journal=パッション|issue=3|pages=2-3|publisher=四日市市文化協会|url=http://y-bk.work/passion/ps-03.pdf |format=PDF |accessdate=2021-12-4}}</ref>。翌1995年(平成7年)には終戦50年として、三重県四日市市で上演された{{R|パッション19950611_p2}}。
 
* 『ダモイ〜収容所(ラーゲリ)から来た遺書〜』
** 同じく『収容所から来た遺書』をもとにした舞台作品<ref name="産経新聞20050814m_p3">{{Cite news|和書|title=私の中の60年 作家「死者の声」真向かう大切さ|newspaper=産経新聞|edition=大阪朝刊|date=2005-8-14|author=辺見じゅん|page=3|language=ja}}</ref><ref name="毎日新聞20060526_p22">{{Cite news|和書|title=演劇 シベリア抑留の「ダモイ」7月3日、鳥取・米子市文化ホールで上演|newspaper=毎日新聞|edition=地方版 鳥取|date=2006-5-26|author=小松原弘人|page=22|language=ja}}</ref>。芸能プロダクションのトム・プロジェクトのプロデュースによる戦後60周年記念作品<ref>{{Cite news|title=平和を問う 戦後60年、演劇は 劇団「やまびこ座」「朗読サークルことのは」|newspaper=[[京都新聞]]|edition=夕刊|date=2005-2-8|accessdate=2021-8-2|publisher=京都新聞社|page=4|language=ja}}</ref>。2004年(平成16年)に初演<ref>{{Cite web|url=https://www.tomproject.com/past/play/post-71.html |title=ダモイ|accessdate=2021-12-4|date=2016|publisher=トム・プロジェクト}}</ref>。2006年(平成18年)には山本の郷里である島根県隠岐の誘致により、[[隠岐の島町]]の隠岐島文化会館で上演された<ref>{{Cite news|和書|title=いつか国に帰るその日を信じた シベリア抑留の山本さん描く 演劇「ダモイ」島根県|newspaper=朝日新聞|edition=大阪地方版 島根|date=2006-7-3|page=28|language=ja}}</ref>。山本幡男役は[[平田満]]{{R|産経新聞20050814m_p3|毎日新聞20060526_p22}}、後に[[下条アトム]]<ref>{{Cite news|和書|title=近況往来 シベリア抑留の苦闘描いた「ダモイ」13日に福岡公演 俳優・新納敏正さん|newspaper=西日本新聞|edition=朝刊|date=2010-7-9|page=9|language=ja}}</ref>。この作品などの上演により、トム・プロジェクトは2008年(平成20年)に、[[紀伊国屋書店]]主催による第43回[[紀伊国屋演劇賞]]の団体賞を受賞した<ref>{{Cite news|和書|title=紀伊国屋演劇賞 個人賞に「海霧」の樫山文枝ら|newspaper=[[北海道新聞]]|edition=全道夕刊|date=2008-12-22|publisher=[[北海道新聞社]]|page=7|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=受賞 トム・プロジェクト団体賞に決まる 紀伊国屋演劇賞|newspaper=[[沖縄タイムス]]|edition=朝刊|date=2008-12-26|publisher=沖縄タイムス社|page=9|language=ja}}</ref>。
 
=== 映画 ===
{{公開前の映画|date=2021年11月|section=1}}
* 『[[収容所から来た遺書#映画|収容所(ラーゲリ)から来た遺書]]』(仮題<ref name="映画ニュース20181018">{{Cite news|title=二宮和也、不屈の日本人捕虜役で主演! 史実描く「収容所から来た遺書」で瀬々敬久監督と初タッグ|newspaper=映画ニュース|date=2018-10-18|url=https://eiga.com/news/20211018/2/ |accessdate=2021-9-16|publisher=[[映画.com]]|language=ja}}</ref>)
** 2022年(令和4年)公開予定{{R|映画ニュース20181018}}。監督は[[瀬々敬久]]、脚本は[[林民夫]]{{R|映画ニュース20181018}}、主演は[[二宮和也]]<ref>{{Citeweb|url=https://natalie.mu/eiga/news/449770|title=二宮和也が捕虜に希望の火を灯す「収容所から来た遺書」映画化、監督は瀬々敬久|website=映画ナタリー|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-18}}</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[三枝義浩]]|title=[[語り継がれる戦争童貞を殺す服記憶]]|others=[[横山秀夫]]脚本描き方|date=19982016-28-5|publisher=[[講談一迅社]]|series=KCデラクス|volume=3チな描き方シリーズ|isbn=978-4-067580-3199011516-75|ref={{SfnRef|三枝一迅社|19982016}}}}
* {{Cite book|和書|author=桜井均|title=テレビは戦争をどう描いてきたか 映像と記憶のアーカイブス|date=2005-9-28|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-024015-4|ref={{SfnRef|桜井|2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[立川昭二]]|title=最後の手紙|date=1990-9|publisher=[[筑摩書房]]|series=ちくまプリマーブックス|isbn=978-4-480-04144-9|ref={{SfnRef|立川|1990}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[辺見じゅん]]|date=1987-10-1|title=ラーゲリからの遺書配達人|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]|volume=65|issue=13|publisher=[[文藝春秋]]|id={{NCID|AN00278208}}|ref={{SfnRef|辺見|1987}}}}
* {{Cite book|和書|author=辺見じゅん|title=収容所から来た遺書|origyear=1989|date=1992-6-10|publisher=文藝春秋|series=[[文春文庫]]|isbn=978-4-16-734203-6|ref={{SfnRef|辺見|1992}}}}
* {{Cite journal|和書|author=辺見じゅん|date=1990-5-1|title=もう一つのドキュメント 収容所で生れた奇跡|journal=文藝春秋|volume=68|issue=6|ref={{SfnRef|辺見|1990}}}}
* {{Cite journal|和書|author=辺見じゅん|date=2009-9-1|title=山本幡男 絶望を希望に変えた無名の庶民の非凡な生涯|journal=潮|volume=|issue=607|publisher=[[潮出版社]]|id={{NAID|40016664515}}|ref={{SfnRef|辺見|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author=辺見じゅん|title=ダモイ 遥かに|date=2008-4-20|publisher=メディアパル|isbn=978-4-89610-083-9|ref={{SfnRef|辺見|2008}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[柳田邦男]]|date=2013-11-1|title=大宅賞44年を振り返る 柳田邦男 私が心を震わせた三冊|journal=文藝春秋|volume=91|issue=12|ref={{SfnRef|柳田|2013}}}}
* {{Cite book|和書|author=野中正孝編著|title=東京外国語学校史 外国語を学んだ人たち|date=2008-11-10|publisher=不二出版|isbn=978-4-8350-5767-5|ref={{SfnRef|野中|2008}}}}
* {{Cite book|和書|author=山本厚生|title=ひと裁ち折りと山本厚生の世界 折って、切って、開く、平和への願い|year=2012|publisher=萌文社|isbn=978-4-89491-236-6|ref={{SfnRef|山本|2012}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[黒田清]]編|title=90年代を生きるために 講座・戦争と差別を考える|date=1990-1-30|publisher=[[教育史料出版会]]|isbn=978-4-87652-176-0|ref={{SfnRef|黒田|1990}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[鈴木健次]]編|title=作家の透視図|date=1991-8|publisher=メディアパル|isbn=978-4-89610-006-8|ref={{SfnRef|鈴木編|1991}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[辺見じゅん]]編|title=昭和の遺書|date=1987-8|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-883221-2|ref={{SfnRef|辺見編|1987}}}}
 
== 外部リンク ==
* [http://www.br4.fiberbit.net/ken-yama/www.br4.fiberbit.net_ken-yama/Welcome.html 山本顕一のホームページへようこそ!] - 山本幡男の長男・山本顕一によるウェブサイト。山本の遺書の全文が公開されている。