「岩波映画製作所」の版間の差分

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== 沿革 ==
*[[1949年]]、[[北海道大学]]教授中谷宇吉郎、日映出身のカメラマン吉野馨治、小口禎三、岩波書店小林勇、[[共同通信社]]の記者であった羽仁進らにより、中谷研究室プロダクション設立。第1回作品「凸レンズ」製作。
*[[1950年]]、5月1日、「中谷研究室プロダクション」から改組し「株式会社岩波映画製作所となる{{Sfn|丹羽・吉見|2014|p=21}}。写真家[[名取洋之助]]が参加する。岩波書店の「岩波写真文庫」が創刊。編集、写真撮影の多くを担当する。
*[[1950年]]、映画部門の経営を助けるために写真部を作り「岩波写真文庫」が創刊。編集、写真撮影の多くを担当する。1958年までに全286冊刊行{{Sfn|丹羽・吉見|2014|p=26}}。
*[[1950年]]、6月。「はえのいない町」完成。『社会科教材映画体系』の1作目{{Sfn|丹羽・吉見|2014|p=21}}。
*[[1951年]]、「手工業」『社会科教材映画体系』2作目{{Sfn|丹羽・吉見|2014|p=25}}。
*[[1953年]]、「岩波写真文庫」、第1回[[菊池寛賞]]受賞。
*[[1954年]]、「教室の子供たち」、第6回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]教育文化映画賞受賞。