「悪冠一色」の版間の差分

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== 概要 ==
[[2003年]]に[[イタリアン・コネクション]]を脱退した[[近藤修司]]、[["brother"YASSHI]]に、1匹狼で活動していた[[大鷲透]]が共闘を呼び掛け合流、のちに[[高木省吾]]が加入する。闘龍門の全ユニットに抗争を仕掛け、ルードユニットとしての活動を開始する。この頃はまだ軍団名を名乗ろうとせずマスコミやファンからは'''はぐれ軍(仮)'''と呼ばれていた。
 
[[2004年]]1月ヒールターンした[[望月成晃]]を迎えた際、その場でユニット名を'''『悪冠一色(アーガンイーソー)』'''と発表した。その後、ロイヤル・ブラザーズだった[[菅原拓也]]に謀略を演じさせて招き入れ、総勢6名の大所帯ユニットとなった。悪冠一色は他のユニットと異なり結成当初からリーダーを設けておらず、各メンバーが好き勝手に暴れるというヒール集団だった。だが、徐々にメンバーが増えると、今まで通りのやり方ではユニットが機能しないと考えた望月は、「まとめ役」が必要だと主張した。これに対して近藤が「あくまで悪冠にリーダーは必要ない!」と反発したことから、リーダー問題が勃発してしまった。近藤と望月の間に亀裂が生じた結果、リーダーの座を賭けて両者が戦うこととなり、勝った望月がリーダーに就任する。一方、敗れた近藤も望月を認め、リーダー問題はこれで終焉したと思われた。が、望月の思考に同調するメンバーは1人もおらず、望月はその翌日に悪冠一色を追放されることになった。望月の追放後は闘龍門JAPANからDRAGON GATEの極悪ルードとして活動するも、リング外の素行不良と職務怠慢を理由に2004年末をもってメンバー全員がDRAGON GATEから解雇された。解雇以降、元メンバーの望月と袂を分かった事や各選手がそれぞれ活動の場を移したことから、DRAGON GATE20周年記念試合に至る15年間はメンバーのそろい踏みは果たされなかった。
 
[[2005年]]1月、悪冠一色の解散が発表されると、解雇後はメンバー各員それぞれ新たな主戦場へと進んで行った。
 
=== 解散後 ===
近藤、YASSHIは[[全日本プロレス]]へと殴り込み、DRAGON GATE時代の先輩である[[TARU]]と組んでヒールユニット・[[VOODOO-MURDERS]]を結成する。
 
大鷲は[[大阪プロレス]]へ参戦、最凶のフリー参戦選手として暴れるが[[怪人・ハブ男|スーパー・ドルフィン]]に敗戦後、離脱した。後に新しい主戦場[[DDTプロレスリング]]へ参戦、自らヒールグループを作り、DDTに無くてはならない存在となった。
 
高木はDDTへと参戦し、入団も誘われたがあえて参戦という形で活動後、後に合流する大鷲と手を組んだ
 
菅原は、アメリカ修行の後に他団体へフリー参戦後、[[みちのくプロレス]]へ[[Gamma]]と乱入し[[STONED]]を結成する。しかし、ほとんどみちプロには参戦せず[[ZERO1|ZERO1-MAX]]へ。容姿が似ている[[藤田ミノル]]から「弟」と呼ばれ敵対する。
 
[[2005年]]7月に旗揚げされた[[ドラゴンドア]]の興行において、メンバーが一堂に会している。但し、同団体の興行において闘龍門Xに所属していた選手が「STONED」を結成した影響からか、[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]の扱いを受けている。更に、唯一態度を保留していた菅原が「STONED」に加入してしまった。
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[[2009年]]、"brother"YASSHIがレスラー活動を休業。
 
[[2011年]]、大鷲が無期限の休業に入る。(後2013年に[[高木三四郎]]こと高木規が社長を勤めるDDTプロレスリングに於いて本格的に現役復帰し、現在はフリーランスとしてDDTプロレスリングをメインに参戦。現在は高木・[[平田一喜]]と共に3人組ユニット『T2ひー』を結成し活動中。)
 
[[2019年]]、[[DRAGON GATE]]が闘龍門JAPAN時代から数えて20周年を迎えた事を受け、1月に解雇以来およそ14年振りに近藤がDGマットに参戦、これに続く形で同じく14年振りに大鷲、長らく参戦していなかった菅原も参戦した。そこに定期参戦しているYASSHIを合わせ、解雇時の悪冠一色メンバーがDGマットに15年振りに集結した。その後も[[アンソニー・W・森]]を巡って菅原が後楽園に参戦、神戸ワールド記念ホール大会には近藤と菅原が参戦している。
 
== メンバー ==