「ゲアハルト・シュレーダー」の版間の差分

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=== 首相 ===
[[1998年]]、「'''新しい[[中道政治|中道]]'''」をキャッチフレーズに、SPDの連邦首相候補として連邦議会選挙に再出馬して当選。この選挙で社会民主党が議会第一党を獲得、同盟90/緑の党との連立で16年ぶりの政権交代を実現し、ドイツ連邦共和国第7代[[ドイツの首相|首相]]に就任。高級な[[背広]]に[[葉巻きたばこ|葉巻]]というおよそSPDという労働者政党らしからぬ装いで「'''ボス同志'''」<ref>「同志」({{lang-de-short|Genosse}})は[[社会主義]]・[[共産主義]]者が互いを呼ぶ時の尊称。</ref> と揶揄される。
 
[[1999年]]、政策的に対立していた党内左派の[[オスカー・ラフォンテーヌ]]党首に代わって、SPD党首となる。この年前半の[[コソボ紛争]]で[[ドイツ連邦軍]]は戦後初めて戦争に参加、激しい議論を呼んだ。また同年、[[環境税]]を導入した。
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[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受け、「[[アメリカ合衆国]]との無制限の連帯」を表明。ドイツ連邦軍の「[[不朽の自由作戦]]」参加を決定。ドイツ軍は[[アフガニスタン]]での[[国際治安支援部隊]](ISAF)の活動に、[[北大西洋条約機構]](NATO)の一員として現在も参加している。11月、年金改革法案可決。12月、将来の[[原子力発電所]]全廃を決定。
 
[[2002年]]6月の[[第28回主要国首脳会議]](サミット)終了後、[[サッカー]][[2002 FIFAワールドカップ・決勝|ワールドカップ]]決勝戦を観戦するために、[[日本国政府専用機|日本の政府専用機]]に搭乗して訪日<ref>[[横浜市|横浜]]で行われたこの決勝戦には[[ヨハネス・ラウ]]大統領、[[オットー・シリー]]内相、果ては野党領袖でこの年の総選挙でシュレーダー首相と激突する[[エドムント・シュトイバー]]・[[バイエルン州]]首相までが来日して皆で観戦し、あたかもドイツの首脳が丸ごと日本に来たかのような観を呈した。ラウ大統領以外は、全員[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]の決勝進出を受けて急遽来日を決めた(ラウ大統領は[[2006 FIFAワールドカップ|次回ワールドカップ]]開催国の[[元首]]として、ドイツ代表の結果に関係なく来日する予定になっていた)のだが、ドイツは[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]に 0 - 2 で敗れ、準優勝に終わった。</ref>。8月に[[エルベ川]]が大[[洪水]]を起こし、現地に乗り込んで対策を指示。[[ドイツ再統一]]後も経済不振の続く旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の開発重視は政策の一つでもあった。同月の連邦議会選挙で'''「[[ドイツの道]]」'''を提唱し、アメリカによる[[イラク戦争|イラクへの攻撃]]反対を訴えて辛勝。首相に再任。12月、[[中華人民共和国]]の[[同済大学]]より、名誉博士号が授与される。この年、シュレーダー政権の改革政策を風刺した「税金の歌」({{lang-de-short|Der Steuersong}})([[ラス・ケチャップ]]の「{{仮リンク|アセレヘ 〜魔法のケチャップ・ソング〜|en|The Ketchup Song (Aserejé)}}」の[[替え歌]]で、{{仮リンク|エルマー・ブラント|en|Elmar Brandt}}が「{{仮リンク|ゲルド・ショー|en|Die Gerd-Show}}」名義で歌唱)が7週間にわたりシングルのヒットチャート1位となる。良くも悪くも、前例のない「'''メディアの宰相'''」だった。
 
[[2003年]]3月、経済の[[グローバル化]]や[[成長戦略]]を視野に入れた改革プロジェクト『アゲンダ2010』を発表。その内容が[[新自由主義]]的であるとしてSPDの伝統的な支持基盤である[[労働組合]]から批判される。この年3月に起きた[[イラク戦争]]には[[フランス]]と共に[[国連決議]]抜きでの開戦に反対し、派兵しなかった。