「哀公 (秦)」の版間の差分

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景公40年([[紀元前537年|前537年]])秋、景公が[[薨去]]したため、後を継いで秦公となる。
 
哀公14年([[紀元前523年|前523年]])、[[楚 (春秋)|楚]]の[[平王 (楚)|平王]]が{{仮リンク|太子建|zh|太子建}}のために秦の公女を求めてきた。哀公の娘[[伯嬴]]が楚へ嫁ぐとその美貌のため、平王が自分の妻とした。
 
哀公15年([[紀元前522年|前522年]])、[[晋 (春秋)|晋]]で内紛が起き(六卿の乱)、外にまで手が回らくなったため、しばらく晋と秦の間に争いが起きることはなかった。
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哀公31年([[紀元前506年|前506年]])11月、[[呉 (春秋)|呉]]王[[闔閭]]が[[伍子胥]]とともに楚の都である[[郢]](えい)<ref>現在の[[湖北省]][[荊州市]][[荊州区]]。</ref>に攻め入ったため、楚の[[昭王 (楚)|昭王]]は随(ずい)<ref>現在の[[湖北省]][[随州市]][[曽都区]]。</ref>へ逃れ、秦に救援を要請してきた<ref>この時、楚の[[大夫]]である[[申包胥]]が泣きついて来て、一杯の湯さえも口にせず、7日間過ごした。そこで哀公は『[[詩経]]』国風の秦風「無衣」の詩を歌ってやったという。</ref>。そこで秦は兵車500乗を送って楚を援助し、呉軍を破った。これにより楚の昭王は郢に戻ることができた。
 
哀公36年([[紀元前501年|前501年]])秋、薨去したが、[[皇太子|太子]]の{{仮リンク|夷公 (秦)|zh|秦夷公|label=夷公}}は早くに亡くなっていたので、夷公の子が立って秦公([[恵公 (春秋秦)|恵公]])となった。
 
== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
*『[[春秋左氏伝]]』([[定公 (魯)|定公]]四年、九年)
*『[[史記]]』(秦本紀第五)