「ドイツ民主共和国」の版間の差分

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[[1953年]]3月にスターリンが死去したあと、ソ連指導部は方針転換し、強制的な社会主義化と政治的弾圧をやめるようになった。[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はこの方針に従ったが、ノルマを達成しない労働者の賃金をカットする「{{日本語版にない記事リンク|労働規範|de|Arbeitsnorm}}」は撤回しなかったことで、[[東ベルリン]]で抗議デモが起こり、それが発展して[[1953年]]6月17日に[[東ベルリン暴動]]が起こった。東ドイツ国内に駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡した<ref>[http://www.17juni53.de/tote/recherche.html Tote des 17. Juni 1953]. In: 17. Juni 1953. 2004年, 参照:2008年11月12日</ref>。
 
ソ連は東ドイツへの賠償請求を放棄し、東ドイツ国内にあった{{仮リンク|ソ連法人|de|Sowjetische Aktiengesellschaft}}を国営企業へと変えるなどして財政援助を行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内で疑問視されていた[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]政権下の[[ドイツ社会主義統一党|SED]]体制も安定するようになった。[[1956年]]11月の[[ハンガリー動乱]]で、ソ連軍が鎮圧にあたった際には、数千人の死者が出ただけでなく、さらに2000人以上が処刑された。これに応じて、東ドイツでも、体制批判的な学生や学者に対して新たに[[弾圧]]が行われた。[[1959年]]、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]は「社会主義建設」のための第二段階を実行するようになった。まず[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はあらゆる手段を使って、[[1960年]]の第一四半期に農業面積の約40&nbsp;%を「自発的な」加入によって農協の所有物にし、農産物の90&nbsp;%を集団農場で作ることの必要性を喚起した<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;135–145 (Originalausgabe 1998).</ref>。そのことによって[[難民]]の数は飛躍的に増大し、4万7433人が[[1961年]]8月初めに東ドイツから逃亡した。
 
=== 壁建設と緊張緩和政策(1961–1971) ===