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1523年、オラニエ公フィリベール・ド・シャロンが率いるカスティーリャ軍が町を占領し、防御施設を破壊した。1538年から1549年まで、ナヴァランクスは最新システムの要塞を備えていた。エンリケ2世と[[マルグリット・ダングレーム|マルガリータ]]時代、イタリア人建築家ファブリシオ・シチリアーノによるもので、高さ10m全長1.66kmの城壁、土で目張りされた壁、防備を施した門、[[トスカーナ]]の[[ルッカ]]城砦を手本とした4か所の稜堡、凸角堡、[[ラヴリン|半月堡]]、[[張り出し櫓]]、地下回廊を備えていた。火薬庫と軍の泉が、後にできた工廠と同様にこの防御システムを完成させた。
 
1569年の3月から7月にかけて、[[ガブリエル・ド・モンゴムリロルジュ]]の援軍が到着するまで、ベアルンの[[ユグノー]]たちはフランス軍に抵抗することで、要塞の有効性を証明する必要があった。フランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の不本意な弑逆者の過程に自らを投じたベアルンとビグルダンの教会は、取り返しのつかない破壊行為に苦しんだ。
 
1620年には、ベアルンとナバラをフランス王国との連合王国にしたフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]がナヴァランクスを訪問した。町は王軍に抵抗せず、大砲の導火線で王に費用が掛かることもなかった。ナバラ女王かつベアルン君主である、ルイ13世の祖母[[ジャンヌ・ダルブレ]]が1563年の[[復活祭]]の日に[[カルヴァン主義]]信仰を公言したまさにその教会で、君主はアルノー4世・ド・メティ司教が主宰するミサに出席することにより、ナヴァランクスでのカトリック信仰を復活させた。この出来事を記憶にとどめるため、王はフランス王国の紋章を掲げた教会の入り口の上に月桂樹の花冠を置いた。若い王は、ナバラ王国の宝物庫に残っていたものを取り返すために、町への訪問を利用した。この日から、町はユグノーにとって『安全な場所』ではなくなった。
 
[[フランス革命]]の間、1790年10月14日にポーがその地位を引き継ぐまで、ナヴァランクスは1790年3月4日、バス=ピレネー県最初の県都となった。
 
1828年、隣接するコミューン、ベレランクスとナヴァランクスが合併した。
 
1871年、住民の満場一致の要請で、要塞は完全に廃止され、駐屯地がなくなった。ナヴァランクスは1546年から19世紀まで戦争の場であり続けた。
 
==脚注==