「楊応龍の乱」の版間の差分

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| combatant3 =
| commander1 = [[楊応龍]]{{KIA}}<br />[[楊朝棟 (播州)|楊朝棟]]{{Executed}}<br />[[楊惟棟]]{{Executed}}<br />[[楊兆龍 (播州)|楊兆龍]]{{Executed}}
| commander2 = [[李化龍 (明)|李化龍]]<br />[[郭子章]]<br />[[劉綎]]<br />[[陳璘]]<br />[[安疆臣]]<br />[[安尭臣|隴澄]](安臣)<br />[[馬千乗]]<br />[[秦良玉]]
| commander3 =
| strength1 = 140,000
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楊応龍は採木の提出等で有能な土司と評価されていたが、自己権力の増大を図りに五司七姓(黄平・草塘・白泥・余慶・重安の五司と田・張・袁・盧・譚・羅・呉の七姓)と称される他在地勢力から反発された。五司七姓は楊応龍は反逆したと上奏、[[1590年]]([[万暦]]18年)に貴州[[巡撫]]都御史の[[葉夢熊]]は楊応龍の取調べを主張したが、四川巡按の[[李化龍]]は生苗からの防御のために播州土兵の戦力が必要であることから取調べには反対した<ref name="okano1971"/>。
 
[[1591年]](万暦19年)に葉夢熊は権力分離を狙って播州五司を[[重慶府|重慶]]に移管することを提案したが、李化龍は自らの辞任と引き換えに移管案を防いでいる。中央での管轄権をめぐる政争が行われる中、楊応龍は妾の田氏に教唆され正妻の張氏とその母親を殺害、それに反発した遺族より再度反乱の嫌疑ありと訴えられた<ref name="okano1971"/>。
 
[[1592年]](万暦20年)、重慶に召還された楊応龍は斬刑を言い渡されるが銀2万両で贖罪、またこの年に始まった[[文禄・慶長の役]]に5000人の兵を率いて参戦することを表明して釈放された。ただし、明朝からは参戦の必要なしと通告され播州へ帰国している。しかし、帰国後も楊応龍の横暴は収まることが無く、再度の告発を受けたが、朝鮮情勢を受けた明朝の影響力低下を受けて今度は取り調べを拒否した<ref name="okano1971"/>。
 
[[1594年]](万暦22年)10月、ついに明朝は懐柔政策からの転換を図り、南京侍郎の[[邢玠]]により鎮圧に乗り出した。邢玠は楊応龍に投降を促したが、楊応龍の失脚を狙う五司七姓により途中で阻まれた。結局、楊応龍は黄元等12人の身代わりを処刑し、4万金を納め、採木による資材提出を行い、次の楊可棟を人質に出し、宣慰使は嫡子の楊朝棟に譲ることで再度死刑を免れた<ref name="okano1971"/>。
 
[[1596年]](万暦24年)7月、人質となっていた楊可棟が死去すると楊応龍は態度を硬化、贖罪金の支払いを拒否した。一方で、敵対勢力へ略奪を行い、原住民の苗族を厚遇して独立色を強めていった。この年、楊応龍は余慶・草塘にて略奪を行い、興隆・偏鎮・都勻等の衛所を攻め、五司の内の黄平・重安の一族を誅殺した<ref name="okano1971"/>。