「朱ソウ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
出典のない記述を削除
編集の要約なし
タグ: 条件数過多
6行目:
 
== 生涯 ==
洪武3年([[1370年]]に秦王に封じられ、洪武11年([[1378年]]に[[西安]]に赴任した。父の洪武帝からは皇太子の朱標に次いで寵愛され、赴任するときも父から訓戒を受けている。温厚で篤実な人物だったという。しかし洪武24年([[13891391年]]、何らかの罪を犯したという理由で陝西に巡幸して洪武帝きた皇太子により引き渡され、[[南京市|京師]]に召還される。洪武帝は厳罰を考えていたが、兄の朱標皇太子が懸命に弁護したため無罪とされた。このことから朱標とも仲が良かったと思われる。
 
洪武28年(1395年)、[[洮州]]の少数民族が反乱を起こすと、洪武帝の命令で出兵して鎮圧に貢献した。しかし同年3月に病死した。享年40。