「福羽逸人」の版間の差分

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1906年(明治39年)には東京市の依頼で、市内の街路樹の試験研究を受嘱する。長年の経験を基に、[[白沢保美]]と協力立案し[[スズカケノキ]]挿穂2万本、[[ユリノキ]]の種子数種を交附し育成を指導した結果、3年で街路樹木を育成定植させた。
 
1907年(明治40年)8月22日に爵位を継承<ref>『官報』第7246号、明治40年8月23日</ref>。また、[[大韓帝国]]の[[昌慶宮]]に建設するガラス張り[[温室]]の設計を行った<ref>{{cite web|url=http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/1120299/1 |title=「昌慶宮の温室」はあの当時のまま…1909年に建てられた国内初の洋風温室|publisher= 東亜日報|date=2017年11月8日|accessdate=2017年12月6日}}</ref>。1908年(明治41年)に武庫離宮(現在の[[須磨離宮公園]])の庭園設計を行った。そのほか邸宅庭園では、李王邸や溝口伯爵邸の改良、麻布鳥居坂町の佐々木邸などを手がける。また[[小沢圭次郎]]の別府公園(明治41年)は、福羽の推薦による。その後も明治43年まで欧米視察をし、日本に西欧の園芸学を導入し、学問としての基礎を築いた。
 
1913年(大正2年)に[[大膳寮|大膳頭]]ならびに[[内匠寮]]御用掛に就任。これは翌年、京都の[[二条城]]で行われる[[大正天皇]]の即位礼「大饗」の指揮監督官を担ったものであった。福羽はこれまでにも新宿御苑において栽培した西洋野菜や果物を宮中晩餐会で用いたり、洋ランなどの花卉で会場を装飾するなどの饗宴を手掛け、また海外留学や渡航実績、国内外の国家行事への知識や経験が豊富であったことも高評価され、大正4年に行われる大饗指揮官に大抜擢される。