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労働者が一人で資本や権力と闘うことなどできない。船本は
{{Bquote|(一緒に酒を飲んだり愚痴を言い合ったりする)単なる仲間から闘う仲間へと飛躍するのは、まず第一に、共通のに対して闘うこと、第二に、仲間の一人でもやられたらやり返すこと、何ヶ月、何年かかろうとも必ず報復すること、ここからしか実現しない。仲間の一人でも手配師に殴られたり殺されたりしたら、そこに自分の運命をみること、他人ごとではなく、自分にかけられた攻撃であると認識せよ。何故なら、みんな同じ抑圧と屈辱の情況を生きているのだから。(中略)、一人で闘える闘争などどこにもない。報復の方法もまた、大衆的に粉砕できる方法を考えなければならない。|||船本洲治「持久戦を
闘いぬく組織を確立するために」株式会社共和国発行『黙って野たれ死ぬな』2018年、pp.152-153}}とした。現場闘争での具体的なやり返し方は様々ある、船本はサボタージュがもっとも革命的な闘い方だとするが、ただしそれぞれ様々な情況があり、闘い方も情況に合わせるべきであり、目的は仲間を結集し、闘う仲間を作り出すことであると主張した<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.154-155</ref>。
 
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新左翼諸派、とりわけ大組織の組織労働者に拠点を置こうとする傾向が強い[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]に対して船本は社民の卵であると非難し、帝国主義の補完物ー左のポーズを取っているがゆえにもっとタチが悪いーとさえ言っている<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.121-122,269-278</ref>。
 
新聞報道では船本は[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]との関を指摘されているが<ref>朝日新聞大阪朝刊1975年6月27日p.1、毎日新聞1975年6月27日p.23、読売新聞1975年6月27日p.23</ref>、船本は赤軍派について「マンツーマンで尾行され、24時間監視されている武闘派とは一体何者なのだろう」「白色政治支配下で赤軍派が公然と赤軍派を名乗ること自体が、すでに自己矛盾であり、主観主義である」とし、赤軍派の役割は権力の目を引きつけ、真の武闘派を権力から守るカモフラージュであるなどと述べている<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.289</ref>。
 
左翼諸派のなかで唯一東アジア武装戦線に対してのみ船本は否定的な発言をしていない<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、船本の全論文</ref>。
 
==東アジア反日武装戦線との関係==
船本は遺書の中で東アジア反日武装戦線について「その爆弾闘争こそが東アジアの明日を動かす闘争であるとアジア人民に示している。」と述べ、その闘争が更に持続し拡大していくことを期待している<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』2018年、pp.290-294</ref>。新聞報道では東アジア反日武装戦線“さそり”グループの[[黒川芳正]]は船本と複数回会ったことを認めており<ref>毎日新聞1975年6月27日p.23</ref>、さらに、”狼”グループの[[佐々木規夫]]とも知り合っており<ref>夕刊読売新聞1976年9月28日p.11、朝日新聞1975年6月27日p.1</ref>、さらに朝日新聞では船本は“狼”グループの[[大道寺将司]]や“大地の牙"グループの[[齋藤和]]とも面識があった可能性を報じられている<ref>朝日新聞大阪朝刊1975年6月27日p.1</ref>。北海道庁爆破事件の[[大森勝久]]も東アジア反日武装戦線を名乗ったが、大森も船本と面識があり影響を受けたとされる<ref>夕刊読売新聞1976年9月28日p.11</ref>。東アジア反日武装戦線が作成した爆弾教本[[腹腹時計]]の文は船本思想を反映したものだとされている<ref>夕刊読売新聞1976年9月28日p.11</ref>。船本が主犯とされたあいりん総合センター爆破事件では、使われた薬品や容器は東アジア反日武装戦線が使ったものと同じメーカーのもので薬品も類似しているが<ref>朝日新聞大阪朝刊1975年6月27日p.1、毎日新聞1975年6月27日p.23</ref>、船本自身は容疑は警察のでっちあげであると主張している<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』2018年pp.244,308-309,290-294</ref>。
 
== 脚注 ==