「江田船山古墳」の版間の差分

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* この銘文の読み方や内容、意義等については[[鉄剣・鉄刀銘文]]の項目を参照。
 
大刀の刀身の平地には片面に花と馬、片面に魚と鳥が銀象嵌で表され、上記の銘文は棟の部分に銀象嵌で表されている。銘文にある「獲〓〓〓鹵大王」は、'''獲'''を「蝮(たじひ)」、'''鹵'''を「歯」と読んで、[[反正天皇]] 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)([[日本書紀]])または水歯別命([[古事記]])と長い間推定されてきたが、埼玉県[[行田市]][[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]から出土した[[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]]に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル[[大王 (ヤマト王権)|大王]]は、[[雄略天皇]]に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、[[ヤマト王権]]の支配が広域(関東地方から九州地方と言われている)に及んでいたことを示す{{R|hinokuni}}。
 
被葬者のムリテ(无〓(利ヵ)弖:无利弖)は雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」として仕えた。また、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」として仕えた。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。