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'''沢松 和子'''('''さわまつ かずこ''', [[1951年]][[1月5日]] - )は、[[兵庫県]][[西宮市]]出身の元女子[[テニス]]選手。[[1975年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルス部門で、[[日系人]]選手の[[アン清村]]とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]タイトルを獲得した名選手である。[[神戸松蔭女子学院大学]]卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。姉の[[沢松順子]]もテニス選手で、[[沢松奈生子]]は順子の娘である。
 
沢松家は、和子から見れば祖父の時代からの[[テニス]]名門一家だった。[[西宮市]]にあるテニスコートつきの家で、和子と順子の2人姉妹は自然にテニスに親しんでいった。和子は[[1967年]]、16歳の時に第42回[[全日本テニス選手権]]と全日本室内テニス選手権で優勝し、同年にジュニアテニス選手の登竜門と言われる「オレンジボウル選手権」の女子シングルスでも優勝を果たす。それ以後、[[1967年]]から[[1975年]]までの足掛け8年間で、彼女は日本国内の試合で「192連勝」の記録を樹立する。それから2年後、18歳になった[[1969年]]には[[全仏オープン]]と[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の女子ジュニア部門で優勝し、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]のジュニア2大会連続優勝を飾った。当時の日本テニス界には「アマチュア」も「プロフェッショナル」もなかったが、その中で沢松和子は日本人テニス選手として史上初の「プロ選手」になった。[[1970年]]から[[1975年]]まで、女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ]]の日本代表選手を務める。
 
[[1971年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]から、沢松和子の世界挑戦が始まる。初出場の時は1回戦敗退に終わったが、[[1972年]]の同大会で初戦突破を果たし、[[オルガ・モロゾワ]]([[ソビエト連邦|ソ連]])との2回戦に進出した。[[1973年]]1月の[[全豪オープン]]で、沢松は準々決勝で[[イギリス]]の[[バージニア・ウェード]]を 0-6, 6-1, 6-4 の逆転で破ったが、続く準決勝で[[オーストラリア]]の[[イボンヌ・グーラゴング]]に 4-6, 3-6 で敗れた。グーラゴングには[[1975年]]の同大会準々決勝と、最後の4大大会出場となった[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも敗れている。