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[[建久]]4年([[1193年]])叙爵。[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の[[院近臣|近臣]]の一人として仕え、[[建暦]]元年([[1211年]])に[[左近衛中将]]となり、[[建保]]7年([[1219年]])に[[蔵人頭]]に任じられて、[[承久]]2年([[1220年]])に参議に至る。後鳥羽上皇が[[源実朝]]暗殺事件後も[[鎌倉]]に止まる信能の[[解官]]を行うという風説が流れ、信能が[[北条政子]]に帰京すべきか否かを相談している<ref>『[[吾妻鏡]]』承久元年閏2月29日条</ref>。だが、帰京後には上皇の側近の地位に復帰し、[[鎌倉幕府]]打倒の謀議に参加。承久3年(1221年)の[[承久の乱]]においては京方の軍勢を率いて、兄弟の尊長とともに芋洗方面の守備に就いて幕府方を防いだ。敗戦後、京へ戻ったが、6月24日に武家からの申請で[[六波羅|京都守護]]に捕縛された。京で直ぐに処刑されるところを、[[北条義時]]からの旨で[[遠山景朝]]に身柄を預けられ鎌倉へ護送される途中、7月5日に遠山景朝の領地である[[美濃国]][[遠山荘]]の岩村に到着。8月4日に斬首される際に、「種々法門皆解脱、無過念仏往西方。上尽一形至十念。三念五念仏来迎。乃至一念無疑心。」と三度繰り返して遂に斬首されたという。
 
現在、[[岐阜県]][[恵那市]][[岩村町]]には『一条信能終焉の地』の史跡があり、また同地にある[[巖邨岩村神社 (岩村町)|岩村神社]]は、信能の墓を弔うために建てられた若宮社という祠を発祥とする。[[明治]]13年([[1880年]])に[[明治天皇]]が[[山梨]]・[[三重]]・[[京都]]への御巡幸の際に[[中山道]]で近くを通った際に[[片岡源馬|片岡侍従]]を岩村へ派遣して一条信能の墓を視察させた。同日片岡侍従は[[多治見]]の[[行在所]]に至り複奏した。これにより[[三條實美]]より特旨をもって岐阜県に対し以下の文書と祭粢料として金拾圓を御下賜あらせられた。
*岐阜県 「故一條宰相中将信能 承久ノ役王事ニ勤労シ 遂ニ身ヲ以テ国ニ殉ズ 其忠烈深ク 御追感被為在候 美濃国恵那郡岩村ノ内字相原ハ 墳墓ノ在ル所ニシテ 近ク御巡幸ノ途ニ接ス 因テ特旨ヲ以テ祭粢料金拾圓 下賜候條此旨相達候事」 明治十三年六月二十九日  太政大臣 三條實美
*[[明治]]14年([[1881年]])それまで信能を祀っていた若宮社が巖邨神社(岩村神社)に改名された。
*[[昭和]]3年([[1928年]])[[正三位]]が贈位された。
*[[静岡県]][[御殿場市]]の[[藍澤神社]]では、承久の乱で処刑された一条信能・[[源有雅]]・[[葉室宗行]]・[[藤原光親]]・[[藤原範茂]]の五卿を祀っている。
 
== 参考文献 ==
岩村町史、恵那郡史