「万年県 (陝西省)」の版間の差分

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[[唐|唐代]]になると大興県は再び'''万年県'''と改称された。唐代は[[長安]]が都城と定められ[[京兆郡|京兆府]]が設置され、その下部に長安県と万年県を管轄、長安城城廓外を朱雀大通で東西に分割し、西を長安県、東を万年県が管轄した。
 
唐の皇帝は本来は長安城の中央北側に位置する[[太極宮]]に居住することになっていたが、第3代の[[高宗 (唐)|高宗]]は太極宮の北東に[[大明宮]]を、第6代の[[玄宗 (唐)]]は太極宮の東(大明宮から見て東南)に[[興慶宮]]を造営してそこに常居し、特に大明宮は唐末に至るまで歴代皇帝の居所として用いられたため、皇族や貴族、官僚らは出仕の都合上、大明宮や興慶宮に近い万年県側に居住することを望んだという<ref>市川理恵『王朝時代の実像2 京職と支配 <SMALL>平安京の行政と住民</SMALL>』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04702-5 P55-57.</ref>。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
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