「ウェリントン公爵騎馬像 (旧王立取引所前)」の版間の差分

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18世紀末、それまで600年近く使用された[[ロンドン橋]]は老朽化が顕著となり、交通量の増加にも対応できなくなっていたことから、架け替えの必要性が指摘されていた。着工までには曲折があったものの、1824年には工事が始まった。新橋の建設が進むと、今度は新橋を介した道路の整備が提案された。財源に石炭税を充てる前提であったため、炭鉱を所有する貴族は反対したが、アーサー・ウェルズリーは整備の必要性を認識し、法案成立に尽力した<ref>{{cite book|first = Dana |last = Arnold |title = Rural urbanism: London landscapes in the early nineteenth century |pages = 106-107 |location = Manchester |publisher = Manchester University Press |year = 2005 |isbn = 978-0-7190-6820-1}}</ref>。道路は1835年に完成し、当時の国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]にちなんでキング・ウィリアム・ストリートと名付けられた。
 
1836年、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]ウィリアム・テイラー・コープランド (William Taylor Copeland) は、道路整備におけるウェルズリーの尽力に感謝の意を示すため、像を建てることを提案した。像の制作者としては、[[リチャード・ウェストマコット]] (Richard Westmacott) 、ジョン・エドワード・カルー (John Edward Carew) 、トーマス・キャンベル (Thomas Campbell) 、[[エドワード・ホッジス・ベイリー]] (Edward Hodges Baily) といった名も挙がったが、有力だったのはマシュー・コーツ・ワイアットとフランシス・レガット・チャントリーの2名であった。この年[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]騎馬像を制作したワイアットも支持を集め、議会は半々に分かれたが、結局チャントリーに決まった。ワイアットは後に別の場所に[[ウェリントン公爵騎馬像 (オールダーショット)|ウェルズリーの像]]を建てることになった。
 
チャントリーによる像制作は進み、1841年8月には[[グラスゴー]]に[[ウェリントン公爵騎馬像 (グラスゴー)|ウェルズリーの像]]を建てることになったフランスの彫刻家[[カルロ・マロケッティ]]に対して対抗心を露にし、自作の出来栄えに自信を示していた。しかしこの年の11月、チャントリーは心臓発作で急死した。像は工房で助手をしていたヘンリー・ウィークス (Henry Weekes) が完成させることになった。1843年年頭の時点で像は完成形が分かる程度にまで制作が進んでいたが、設置が予定された王立取引所は1838年1月に火事に遭い再建工事中であり、像の設置は遅れた。