「1980年のセント・ヘレンズ山噴火」の版間の差分

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火山学者たちはいくつかの有人観測地点を設けたが、最終的には山頂から北に約9km離れた「コールドウォーターII」だけが残った。コールドウォーターIIでは当時大学院生だった[[ハリー・グリッケン]] {{efn|グリッケンは1991年6月3日、[[雲仙岳|雲仙普賢岳]]を調査中に火砕流に巻き込まれて死亡した。}}が観測を担当していたが、卒業研究の準備のため[[5月17日]]に現地を離れ、[[デイヴィッド・ジョンストン]]と交替した。他にもセント・ヘレンズ山の北側にはカメラマンのリード・ブラックバーン ([[:en:Reid Blackburn|Reid Blackburn]])と[[:en:Robert Landsburg|ロバート・ランズバーグ]]、無線技師のジェラルド・マーティン (Jerry Martin)<!-- デイヴィッド・ジョンストンの項目内に記述がある。-->、スピリット湖畔の旅館経営者[[ハリー・R・トルーマン]]、そして伐採業者や火山見物に訪れた野次馬などがいた。避難が長期化したため、5月17日と18日には周辺住民の一時帰宅が行われることになり、伐採や植林などの作業も一部で再開されていた。
[[ファイル:MSH80_david_johnston_at_camp_05-17-80_med.jpg|左|サムネイル|280x280ピクセル|噴火前日のデイヴィッド・ジョンストン]]
[[5月18日]]日曜日、現地時間の朝8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山でマグニチュード5.1の地震が発生した。北側斜面は大規模な山体崩壊を起こし、時速160kmから240kmもの岩屑なだれとなって[[スピリット湖]]へ駆け下り、最大で高さ260mの巨大な波を発生させた。調査本部を呼び出そうとするデイヴィッド・ジョンストンの声("Vancouver! Vancouver! This is it!"〈「バンクーバー!バンクーバー!いよいよだ!」〉)が[[アマチュア無線家]]によって記録されているが、間もなく交信は途絶えた。その直後、セント・ヘレンズ山の内部に蓄積されていた[[マグマ]]が噴出し、激しい横なぐりの爆風(衝撃波)と大規模な火砕流が北側山麓を襲った。このときの[[火山爆発指数]]は5であった。この様子は、山頂から北東に約17km離れた地点に陣取っていたカメラマン、ゲイリー・ローゼンクイスト (Gary Rosenquist) により[http://pubs.usgs.gov/gip/msh/catastrophic.html 連続写真]{{en icon}}として撮影され、秀麗な山容のセント・ヘレンズ山が崩落・爆発する様子が記録された。ジェラルド・マーティンは最後の瞬間まで噴火の様子を無線で伝え続けた。また、地質学者のキースとドロシーのストッフェル夫妻(Keith and Dorothy Stoffel)が小型飛行機で噴火の様子を[http://washingtondnr.wordpress.com/2010/05/18/a-very-close-look-at-the-eruption-of-mount-st-helens/ 写真]{{en icon}}に記録していた。ブラックバーンとランズバーグの遺体はカメラと共に後日発見され、ランズバーグの遺体の下の[[バックパック]]から発見されたカメラからは噴火を記録した4枚の写真が救い出された<ref>[https://www.lomography.com/magazine/234721-robert-landsburgs-brave-final-shots Robert Landsburg's Brave Final Shots]</ref>が、ブラックバーンのカメラのフィルムは熱で破壊されていた。ランズバーグの写真は翌81年に発表されている。
[[ファイル:Msh_may18_sequence.gif|右|サムネイル|300x300ピクセル|1980年5月18日のセントヘレンズ山噴火の過程。地震により山体が3つに分裂し、中のマグマが高圧のガスとともに放出されたことがわかる。]]
セント・ヘレンズ山から北に約11kmまでは跡形もなく吹き飛ばされ、約22kmまでの木々はなぎ倒され、さらに遠方では山火事が発生するなどして合計約600km{{sup|2}}([[東京23区]]に相当する広さ)が大きな損害を被った。50kmほど離れたアダムス山でも気温が一時的に数度上昇した。