「神貞王后」の版間の差分

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| 画像説明= 神貞王后の肖像画
| 在位= <!--君主の正配としての在位-->
| 称号= 孝裕献聖宣敬正仁慈恵弘徳純化文光元成粛烈明協天隆穆寿寧禧康顕定徽安欽倫洪慶泰運昌福熙祥懿謨睿憲敦章啓祉景勲哲範神貞翼皇后(諡号)
| 全名=
| 身位=
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| 結婚=
| 配偶者1=[[孝明世子]]
| 子女=[[憲宗  (朝鮮王)|憲宗]]
| 氏族=[[豊壌趙氏]]
| 家名=
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嘉慶24年([[1819年]])、[[純祖]]の[[皇太子|王世子]]だった孝明世子と結婚し、世子嬪になった。 しかし[[道光]]10年([[1830年]])に夫の孝明世子が死去した。道光14年([[1834年]])の純祖の薨去に伴い、子の憲宗がわずか7歳で即位し、[[王大妃]]になった。最初の7年間は姑で憲宗の祖母にあたる[[純元王后]]が[[垂簾聴政]]を行ったが、憲宗が15歳になった年に親政を開始した。しかし憲宗は後嗣なしに道光29年([[1849年]])に22歳で薨去した。憲宗の死後、純元王后は実家である[[安東金氏]]の権力を維持するため、[[豊壌趙氏]]一派が新王を擁立する前に、[[江華島]]に配流されていた憲宗の再従叔父にあたる元範を宮廷に呼び入れ、徳完君に冊封した。さらに純元王后は徳完君を自分と純祖の養子にした上で、同年[[6月9日]]、徳完君は[[昌徳宮]]において19歳で朝鮮王に即位した。純元王后が神貞王后に代わって新たな[[大王大妃]]になった。そして純元王后は[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]が政治に対する知識がなく、年も若いという理由で垂簾聴政を再び始めた。哲宗はその3年後に親政を開始したが、一切の権力は勢道政治勢力である安東金氏に握られたままだった。
 
純元王后が[[咸豊]]7年([[1857年]])に死去すると、神貞王后は再び大王大妃の称号を手にした。[[同治]]2年([[1863年]])に哲宗も後嗣なしで薨去すると、当時大王大妃で朝鮮王室の最高大人だった神貞王后は李昰応(後の[[興宣大院君]])と謀議して、李昰応の次男である命福([[高宗 (朝鮮)|高宗]])を自身と孝明世子の養子にすることで、朝鮮王に即位させた。
 
高宗即位後は、大王大妃として、影響力を保持した。また、高宗の后を自分の実家である豊壌趙氏から出そうとしたが、興宣大院君の反対に遭って失敗した。[[1890年]][[4月17日 (旧暦)|4月17日]]、83歳で[[景福宮]]興福殿において死去した。