「ハルトムート・ヘンヒェン」の版間の差分

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|Wikify=2018年11月17日 (土) 05:44 (UTC)
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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
[[ファイル:Hartmut Haenchen.jpg|サムネイル|ハルトムート・へンヒェン]]
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'''ハルトムート・へンヒェン''' ({{lang|de|Hartmut Haenchen}}、[[1943年]][[3月21日]] [[ドレスデン]] - ) は、[[ドイツ]]の[[指揮者]]であり、[[オペラ]]指揮者としても世界の主要[[歌劇場|オペラハウス]]で活躍する。[[カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ]]の音楽の専門家として知られる。
 
==キャリア経歴==
1943年、[[ドレスデヒェンの]]生まれ。音楽家としてのキャリアは[[ドレスデン聖十字架合唱団]]のメンバーとしてなったことから始まった。15歳の時にはすでにカントル (教会音楽家、ドイツ語名称kantor) として指揮台に立っていた。17歳の彼は、[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]の[[レクイエム]]を復活させたことにより幅広い注目を集め た。その後ヘンヒェンは[[ドレスデン音楽大学]]に入学し、指揮と[[声楽]]を学ぶ。 在学中、[[オーストリア]]の[[カリンティア]]夏の音楽祭、または[[ベルリン]]でマスタークラスに参加。また後に[[バイロイト音楽祭]]にてリハーサルなどに参加[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の指揮するコンサートに立会う。
 
ヘンヒェンは1966年初めての音楽監督としての契約を[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]市の合唱団(Robert({{lang-de|Robert-Franz-Singakademie)Singakademie}})結ぶ。また[[指揮]]としての契約をハレ・フィルハーモニック オーケストラと結ぶ。1989年から2014年まで[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ室内管弦楽団]]を率いる
 
1972年から1973年にかけて[[ツヴィッカウ]]劇場(Zwickau Theater)の首席指揮者を務める。この時期に[[ベルリン国立歌劇場]]で[[ムソルグスキー]]の「[[ボリス・ゴドゥノフ]]」を指揮してデビューを果たす。1986年まで彼はそこで定期的に公演を行なった。1973年から1976年まで[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団|ドレスデン フィルハーモニック]]の指揮者を務め、ドレスデンの州立歌劇場[[ゼンパー・オーパー]]で客員指揮者としても定期的に登場する。1976年から1979年の間は、[[シュヴェリーン]]市のシンフォニーオーケストラ(Mecklenburgische Staatskapelle)と州立劇場の音楽監督を務め、それに続き[[ベルリン・コーミッシェ・オーパー]]で定期的に出演し始めた。
1989年から2014年まで[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ室内管弦楽団]]を率いる。
 
1980年にベルリンのカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ室内管弦楽団の芸術監督に就任。1986年、ヘインヒェンは[[アムステルダム]]の国立オペラ座 [[:en:Dutch National Opera|De Nationale Opera (DNO)]] の音楽監督、[[オランダ・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[オランダ室内管弦楽団]]の主席指揮者に就任。彼のアムステルダム在任中に DNOは高質の共同製作と革新的なステージ設定で知られ るようになる。ヘンヒェンは特に[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、 [[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]などのドイツ系レパートリーと関連付けられるが、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]などの[[オペラ]]も多く手がけた。1999年に [[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]の「[[ニーベルングの指環|指環]]」の全公演を終えてこのポストを去るが、その後は 客員指揮者として継続して行くことになる。新たに形成された[[オランダ・フィルハーモニー管弦楽団]]は彼のリーダーシップ のもとで、オペラ公演だけでな交響曲の公演、録音、外国ツアーと急速な発展を遂げた。2002年9月、予算削減に抗議し彼はポストを辞任した。
1971年に[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]コンクールにて優勝。
 
2016年と2017年の夏に[[バイロイト音楽祭]]にて「[[パルシファル]]」を公演。
1972年から1973年にかけて[[ツヴィッカウ]]劇場(Zwickau Theater)の首席指揮者を務める。この時期に[[ベルリン国立歌劇場]]で[[ムソルグスキー]]の「[[ボリス・ゴドゥノフ]]」を指揮してデビューを果たす。1986年まで彼はそこで定期的に公演を行なった。
 
1973年から1976年までヘンヒェンは[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団|ドレスデン フィルハーモニック]]の指揮者を務め、ドレスデンの州立歌劇場[[ゼンパー・オーパー]]で客員指揮者としても定期的に登場する。
 
1976年から1979年の間は、[[シュヴェリーン]]市のシンフォニーオーケストラ(Mecklenburgische Staatskapelle)と州立劇場の音楽監督を務め、それに続き[[ベルリン・コーミッシェ・オーパー]]で定期的に出演し始めた。
 
1980年にベルリンのカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ室内管弦楽団の芸術監督に就任。
 
1986年、ヘインヒェンは[[アムステルダム]]の国立オペラ座 [[:en:Dutch National Opera|De Nationale Opera (DNO)]] の音楽監督、[[オランダ・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[オランダ室内管弦楽団]]の主席指揮者に就任。彼のアムステルダム在任中に DNOは高質の共同製作と革新的なステージ設定で知られ るようになる。ヘンヒェンは特に[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、 [[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]などのドイツ系レパートリーと関連付けられるが、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]などの[[オペラ]]も多く手がけた。1999年に [[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]の「[[ニーベルングの指環|指環]]」の全公演を終えてこのポストを去るが、その後は 客員指揮者として継続して行くことになる。新たに形成された[[オランダ・フィルハーモニー管弦楽団]]は彼のリーダーシップ のもとで、オペラ公演だけでな交響曲の公演、録音、外国ツアーと急速な発展を遂げた。2002年9月、予算削減に抗議し彼はポストを辞任した。
 
ヘンヒェンは、ほぼ全てのヨーロッパ諸国から依頼を受け数多く公演をし、日本、[[アメリカ]]、[[カナダ]]ではツアーも行う。オペラの公演は[[アムステルダム]]、[[ボローニャ]]、[[ジュネーヴ]]、[[エルサレム|イェルサレム]]、[[ロンドン]]、[[ミュンヘン]]、[[ニューヨーク]]、[[シュトゥットガルト]]、[[ワルシャワ]]、[[ウィーン]]、[[ヴィースバーデン]]、[[ベルリン]]、[[ドレスデン]]、[[コペンハーゲン]]、[[ミラノ]]、[[パリ]]、[[マドリード]]におよぶ。
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彼が[[ロンドン]]の[[ロイヤルオペラハウス]]で演出と指揮を手がけたた二つの新作はローレンス・オリヴィエール賞に選抜された。
 
2016年と2017年の夏に[[バイロイト音楽祭]]にて「[[パルシファル]]」を公演。
 
定期刊行誌オペルンヴェルト(Opernwelt)は、世界中50人のジャーナリストの投票に 基づきヘンヒェンをConductor of the Year 2017 (2017年最高の指揮者)に選 ぶ。
 
==受賞・栄典==
2018年にはライプツィヒ・リヒャルト・ヴァーグナー財団(Richard Wagner Stiftung)よりリヒャルト・ワーグナー賞を受賞。
*1971年[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]コンクールにて優勝。
*2018年にはライプツィヒ・リヒャルト・ヴァーグナー財団(Richard Wagner Stiftung)よりリヒャルト・ワーグナー賞を受賞。
 
== ディスコグラフィー ==