「少弐資能」の版間の差分
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当時[[武藤氏]]は[[大宰府]]の責任者として[[大宰府|大宰少弐]]の地位にあったため、資能の代から[[少弐氏|少弐]]姓を名乗るようになったという。
資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の[[鎮西奉行]]として、[[文永]]5年([[1268年]])、[[
[[弘安]]4年([[1281年]])の[[元寇#弘安の役|弘安の役]]にも老齢の身を押して出陣した。[[元寇#壱岐島の戦い|壱岐島の戦い]]では元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した<ref>『史料綜覧』第5編之905 258頁</ref>。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師[[南浦紹明]]<ref>渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.68)</ref>は、導師として[[太宰府]]横岳[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]において葬儀を執り行った。
なお、[[仁治]]3年([[1242年]])に、[[円爾]](聖一国師)が[[博多]]に[[承天寺]]<ref>渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.12)の解釈によると、父の武藤資頼の生前の約束であったのか、没後14年を経ているにもかかわらず、承天寺の喜捨(捨地壇越)は父資頼として、その名をたたえているのである。</ref>
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