「ディレクトーリヤ」の版間の差分

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だが、ポーランドと合同するということは、同時にそれまで友好関係にあった同じウクライナ人の組織[[西ウクライナ人民共和国]]との連合を放棄するということも意味していた。同共和国は、領域に侵略するポーランドを国家存亡における最大の敵と看做していたのである。同共和国の軍事組織である[[ウクライナ・ハルィチナー軍]]はのち、ポーランドを駆逐するためロシア赤軍と合同するというディレクトーリヤとは正反対の道を選ぶこととなる。
 
一方、新式の装備に身を固めたポーランド第二共和国軍と連合したディレクトーリヤ軍は、1920年春の[[キエフ攻勢 (1920年)|キエフ攻勢]]で一時キエフを奪還した。しかし、その後赤軍は反撃に移り、最終的にポーランド軍とディレクトーリヤ軍はキエフを放棄せざるを得なくなった。連合軍は[[ヴィスワ川]]まで推し戻され、その後[[ワルシャワ]]へ撤退した。
 
この決定的な敗北により、ウクライナの独立は霧散した。[[1921年]][[3月18日]]、この戦争を終結させようとする西欧諸国からの外圧を受けたポーランドはディレクトーリヤとの条約を一方的に破り、ウクライナ・ソヴィエト共和国政府を事実上ウクライナを代表する政府として認める形で、ロシア・ソヴィエト政府とウクライナ・ソヴィエト政府との間に講和条約となる[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ講和条約]]を結んだ。ソヴィエト勢力はウクライナを掌握し、一方ポーランドはハリチナーなど[[西ウクライナ]]を手中に収めた。