「オスピシオ・カバーニャス」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m マドリード |
||
5行目:
1791年、グアダラハラ司教により、感化院、病院、孤児院、救貧院の機能を統合する複合施設として設立された。名前の由来は、1796年にグアダラハラ管区に任命されたホアン・ルイズ・デ・カバーニャスにある。[[メキシコ・シティ]]出身の高名な[[建築家]]である、[[マニュエル・トルサ]]が設計に携わった。
トルサの設計は、[[パリ]]にある[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]や、[[マドリード
1823年のカバーニャスの死後も、建造工事は1829年まで続いた。[[19世紀]]半ばには兵舎として使用されていた時期もあったものの、本施設は20世紀に入っても正常に稼動を続け、家のない子供たちを多数受け入れた。1980年、カバーニャス文化協会がその提携する美術、工芸の学校とともに入居して来たため、その機能を停止した。内部の装飾の見どころは、[[メキシコ美術]]の巨匠、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]の手による、一連の重要な[[フレスコ画]]があげられる。その中でも、彼の最高傑作である、天井に描かれた『炎の人』(1936年-1939年)は圧巻である。
|