「市川雷蔵」の版間の差分

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当初、養父である[[市川寿海]]は''市川新蔵''(明治期に活躍した天才役者。[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の養子となり、十代目の[[市川團十郎]]を継ぐだろうと言われていた)の名跡を継がせたいと考えていたが、市川猿之助(のちの[[市川猿翁]])に、「どこの馬の骨も知らぬ役者に新蔵の名跡はやれぬ」と反対され、やむなく市川雷蔵を襲名したという経緯がある。
 
こういった経験から、父の市川九団次は何とかして息子に名門の家柄を付けてやりたいと考えるようになり、後の[[市川寿海]]との養子縁組につながっていく。しかし保守的で血縁が重視される梨園の世界での活躍はやはり難しく、結局は22歳で歌舞伎の舞台から離れて『花の白虎隊』で銀幕デビュー。これ以降は映画の世界に身を置くこととなり、結果的に歌舞伎の世界へは生涯戻ことがなかった
 
雷蔵が歌舞伎と距離をおいたのは松竹創設者・[[大谷竹次郎]]との間に確執があったからとか、雷蔵が永年の養父・九団次を思慕するあまり、新たな養父・寿海に馴染めなかったからとも伝えられる。その上、関西では歌舞伎自体が興行不振による凋落傾向を見せ始めており、公演数も減少し、寿海が手をとって雷蔵に役を教える機会にも恵まれなかった。
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私生活では[[1962年]]、[[日本女子大学]]の学生で大映社長[[永田雅一]]と養子縁組していた女性(一般人)と結婚、一男二女を授かった。映画俳優として脂がのりきり、また永年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の[[1969年]][[肝臓癌]]のため37歳の若さで[[夭折]]。前年より下血など健康を著しく害しており入院・手術等を繰り返していた。雷蔵の遺児は当時6歳(長女)・5歳(長男)、末子の二女にいたってはたったの1歳だった。「病み衰えた顔を見せたくない」が、末期の言葉だったという。
 
また、私生活はほとんど表に出さず、私生活での雷蔵の姿を見て、その人が雷蔵であると気付ける人はファンはもとより、映画業界やマスコミの人間にもほとんどいなかった。親交の深かった者の多くがインタビューなどで語るところでは、メーキャップが天才的に上手、普段の雷蔵とカメラの前の雷蔵はまるで別人であり、普段はあんな大変に優しい雷蔵がどうしてあんなれ程に冷たい演技をできるのか不思議な程であったという。ここにも不世出と言われた雷蔵の才能の一端を見る事ができる。
 
大映[[1971年]]倒産したが、これについても雷蔵の急逝決定打と致命傷になったといわれている。作家の[[池波正太郎]]は、「大映は、死ぬ間際に無理矢理(映画を)一本撮らせたそうな」と自らの随筆に記しており、結果的に倒産を早めるきっかけを作ったのは他ならぬ大映自身だといえよう。また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製[[ジェラール・フィリップ]]と喩えられることもある
また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製[[ジェラール・フィリップ]]と喩えられることもある。
 
当時の映画の共演者やスタッフには現在でも雷蔵を慕い、若くして失われたその才能を惜しむ者が多い。中でも歌舞伎時代以前からの親交があった[[中村玉緒]]は様々なインタビューで雷蔵の事を語っており、現在でも兄の様に慕っている事で有名である。
 
死後も時代を超え人々を魅了しつづけ、京都では毎年夏に市川雷蔵映画祭が開催されている。