「松平宗長」の版間の差分

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5代将軍綱吉の生母である[[桂昌院]]が大伯母に当たることから、縁故で[[中奥]]の御[[小姓]]に取り立てられる。
 
[[宝永]]2年([[1705年]])、高森藩主・[[徳川頼職|松平頼職]]が本家の[[紀州藩]]を継ぐこととなったため、高森藩領は収公されることとなった。この際に桂昌院の遺言もあって<ref>『[[徳川実紀]]』< name="jikki_hoei061226"/ref>宗長は大名として取り立てられ、高森藩2万石を与えられた。
 
しかし在任僅か4年後の宝永6年([[1709年]])11月20日に死去した。享年23。跡を弟・[[松平宗胡|宗胡]]が継いだ。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<ref name="jikki_hoei061226">『文昭院殿御実紀』巻第四・宝永六年十二月廿六日条、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772969/43 経済雑誌社版『徳川実紀 第五編』p.75]。</ref>
}}
 
{{高森藩主|本庄松平氏|初代|1705年 - 1709年}}