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[[ファイル:Cai-lun.jpg|thumb|200px|蔡倫]]
'''蔡 倫'''(さい りん、[[
後漢時代、[[外戚]]と[[宦官]]の間で激しい権力闘争があったが、[[鄭衆 (宦官)|鄭衆]]と蔡倫はその初期の人物である。
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しかし、蔡侯紙を献上した105年に和帝が没した。幼くして帝位を継いだ[[殤帝 (漢)|殤帝]]も1年で亡くなり、当時政治の実権を握っていた太后の[[鄧綏]]は、章帝の[[皇太子]]たる地位を廃され清河孝王となった[[劉慶 (清河王)|劉慶]]の、当時13歳の息子の劉祜を[[安帝 (漢)|安帝]]として擁立した。太后は摂政として、[[外戚]]と宦官を併用しつつ実権を握った。このような時期の114年、蔡倫は竜亭侯に封ぜられた。
権勢を振るった太后が121年に亡くなると、安帝は宦官の協力を得て鄧氏一族の粛清を実行に移した。計画が着々と進む中、安帝はまた父劉慶が皇太子を廃された理由を調査し、祖母の宋貴人が巫蠱の[[呪術|呪詛]]をしたという讒言により自殺に追い込まれたと突き止めた。そして、当時(82年)宋貴人の呪詛が事実であると報告をしたのが小黄門であった蔡倫だった。安帝は蔡倫に廷尉(刑罰担当長官)への出頭を勅命した。[[士大夫]]は礼を守り刑には及ばない(『礼記』)という考え方があり、廷尉出頭の勅命を帯びた使者は[[毒薬]]とともにこれを伝えるのが慣例であった。蔡倫もこれに従い、沐浴し衣服を整え、毒を飲んで死んだ。蔡倫が死亡した年月は諸説あるが、少なくともそれは太后が死亡した121年以降と考えられる。
現在の[[湖南省]]耒陽市郊外に蔡倫の墓と伝えられる場所<ref>{{cite web|和書|url=http://www.jfpi.or.jp/printpia/kami/story02.htm|title=紙のはなし第2回「紙の発明」(後編)|publisher=小宮英俊(紙の博物館学芸部長)、日本印刷産業連合会|accessdate=2008-05-14}}</ref>があり、1950年代に地元の県が修復作業をしたところ、[[臼|石臼]]が副葬品として見つかってこれが「蔡倫が紙を作った際に使った臼では?」との憶測が囁かれたが、真偽のほどは不明である。一方で、墓があった場所はかつての封地である現在の[[陝西省]][[漢中市]][[洋県]]龍亭鋪街とする説<ref>{{cite web|和書|url=http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/sightaa.htm|title=陵墓|publisher=(株)インターネットイニシアティブ|accessdate=2008-05-14}}</ref>もある。
== 業績 ==
かつて蔡倫は製紙法の発明者と評されていたが、[[前漢]]
蔡倫に続き紙の改良は続けられ、[[左伯]]が「左伯紙」を発明している<ref>[[s:zh:書斷/卷下|張懐瓘『書断』巻下]]「左伯、字子邑、東萊人。(中略)漢興、有紙代簡。至和帝時、蔡倫工為之、而子邑尤行其妙。」</ref>。これらの紙は普及し、後漢以降の中国では優れた能書や詩文・論文などの輩出を大いに助け、やがてイスラムを経て西洋にも伝わり、文化の発展に貢献した。
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[[Category:中国の宦官]]
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[[Category:後漢
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[[Category:紙の歴史]]
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