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[[浄土真宗]]の寺院・浄専坊に生まれる。第4仏教中学(現・[[崇徳学園|崇徳高等学校]])を経て[[東京帝国大学]][[文学部]]西洋哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒し[[マルクス主義]]に没頭した。同大学卒業後は同郷で医学史の大家・富士川游に師事。[[東洋大学]]、[[立正大学]]、[[法政大学]]などで教職に就いた。[[1928年]]、[[無神論]]運動を起こす。[[1931年]]半年間[[ドイツ]]に留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。[[1932年]]に[[戸坂潤]]らとともに[[唯物論研究会]]の創立に参加。[[1933年]]、思想弾圧により1ヶ月間拘禁の難に遭い教職を辞した。この事件を機に富士川らの薦めで日本哲学思想史の本格的研究を始めた。
 
戦後は鎌倉大学校(後の[[鎌倉アカデミア]])の創立に加わり、自ら第二代の校長も務めるなどして戦後日本の学術の復興に貢献した。後に日本科学史学会会長や[[横浜市立大学]]学長などを歴任したが、国鉄[[鉄道事故|鶴見事故]]で死去。
 
『日本哲学全書』、『日本科学古典全書』、『技術の哲学』、『日本の唯物論』など多くの著書は横浜市立大学学術情報センターに「三枝文庫」として保存されている。