「ハリ・ラーオ・ホールカル」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録) m Bot: {{テンプレート:ホールカル家の当主 → {{ホールカル家の当主, Removed namespace in template ∵Check Wikipedia #1 |
Dušan Kreheľ (bot) (会話 | 投稿記録) More used with only one reference definition: 1 new reference and 3 new reference calls. |
||
41行目:
==生涯==
===即位以前===
[[1795年]]、ハリ・ラーオはホールカル家の[[ヴィトージー・ラーオ・ホールカル]]の息子として生まれた<ref name="#1">[http://www.royalark.net/India/indore4.htm Indore4] </ref>。
[[1801年]][[4月]]、父ヴィトージー・ラーオ・ホールカルは[[マラーター王国]]の宰相[[バージー・ラーオ2世]]により、象に踏みつぶさせられて殺害された。
50行目:
===擁立と即位===
[[1833年]][[10月]]、ホールカル家当主[[マルハール・ラーオ・ホールカル2世]]が死亡し、一族の[[マールターンド・ラーオ・ホールカル]]が新当主となった<ref
こうして、[[1834年]][[2月2日]]、ハリ・ラーオは支持者によってマヘーシュワルから解放され、マールターンド・ラーオは廃位された。その後、[[3月18日]]にインドールに戻ったのち、ガウタマ・バーイーの養子となり、[[4月17日]]には正式に即位した。
57行目:
イギリスもこの即位を認めたものの、ハリ・ラーオ・ホールカルが長年の幽閉生活で健康がすぐれていないことから、後継者として養子をとることを常に勧めた。
そのため、ハリ・ラーオは従兄弟の少年[[カンデー・ラーオ・ホールカル]]を養子にすることにし、[[1841年]][[7月2日]]に正式に養子縁組し<ref
そして、[[1843年]][[10月16日]]にハリ・ラーオは意識不明となり、同月[[10月24日|24日]]にその息を引き取った<ref
==出典・脚注==
|