「マックボンボン」の版間の差分

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結成当初は「'''チャーミングコンビ'''」だったが、ザ・ドリフターズ(以下「ドリフ」)のリーダーで志村の師匠である[[いかりや長介]]から「お前らは絶対チャーミングじゃない」との指摘により改名した。
 
1972年5月の日劇『[[小柳ルミ子]]ショー』でデビュー<ref name="#1">昭和48年2月号『月刊明星』P199</ref>し、井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から、井山の顔面に足でツッコミを入れるなど、志村が敬愛する[[コント55号]]の影響を受けた<ref name=kinchan>{{cite web|url=https://www.news-postseven.com/archives/20200406_1554369.html?DETAIL|publisher=NEWSポストセブン|title=志村けんさん 萩本欽一と交わりかけていた「運命の糸」 NEWSポストセブン 2020年4月6日|accessdate=2020-8-20}}</ref>、身体を張ったネタが評判となる。その後、[[小柳ルミ子]]、[[天地真理]]、[[いしだあゆみ]]、[[森進一]]、[[沢田研二]]、[[鶴田浩二]]、[[三波春夫]]などの前座も務めるようになった。小柳ルミ子は、自身のショーの前座を務めるマックボンボンの動きの激しい芸を、すぐ後に自分の出番があるにもかかわらず舞台袖で夢中になって見ており、また終演後に志村が相方に「あの間が悪かった」とダメ出ししていたと証言している<ref>{{cite web|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/2004|publisher=婦人公論|title=〈追悼・志村けん〉小柳ルミ子「ボーヤの頃に出会って48年。同志であり、戦友だった」 2020年05月02日|accessdate=2020-8-20}}</ref>、また1歳サバを読んでいた<ref>昭和48年2月号『月刊明星』P199< name="#1"/ref>。
若松町の銭湯で終まい湯時にそうじを手伝う代わりにそのあと二人で練習をしていた<ref>昭和48年2月号『月刊明星』P199< name="#1"/ref>。
 
1972年10月には早くも初のレギュラーにして初司会、そしてコンビ名の付いた「冠番組」である『[[ぎんぎら!ボンボン!]]』(『[[シャボン玉ホリデー]]』の後番組)への出演が決まり、更には翌1月の日劇沢田研二ショーへの出演も決まる<ref>[https://sugarbabe49.hatenablog.com/entry/2020/03/30/115342 志村けんさんといえば、ドリフ加入前井山淳さんとお笑いコンビ・「マックボンボン」]</ref>。師匠の[[いかりや長介]]は、ネタのストックも無いままテレビに出演することに難色を示し反対する。そのいかりやの不安は的中し、知名度の低さとワンパターンなネタがすぐに飽きられ、視聴率不振により番組は1[[クール (放送)|クール]](3か月)で打ち切りとなった。その失敗により、ショックを受けた当時の相方である井山が失踪し、連絡が取れなくなった渡辺プロダクションは井山を契約解除とし、ドリフの付き人からも除名した。