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'''劉 瑾'''(りゅう きん、[[1451年景泰]]2年([[景泰1451年]]2年) - [[1510年]]([[正徳 (明)|正徳]]5年([[1510年]])[[8月 (旧暦)|旧暦8月]])は、[[明|明代]]の[[宦官]]。正徳初年に皇帝の寵愛を受け朝政を専断した。後に皇位簒奪を計画したため[[凌遅刑]]に処された。
 
== 生涯 ==
[[西安府]][[興平市|興平県]]の出身。旧姓は「談」であったと伝えられる。無頼出身より自宮し宮中に入り、劉姓の宦官に従い、やがてその姓を受けた。同僚の宦官7人と結託し「'''八虎'''」と称され、[[正徳帝]]に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させることで、政治の実権を掌握した。
 
劉瑾は一部朝臣と結託し朝政を壟断、[[東廠]]・[[西廠]]などの諜報機関を使って反対派を監視弾圧し、収賄政治によりを朝政を堕落させた。劉瑾の政治姿勢に対する反発は強く、[[1510年]](正徳5年(1510年)、[[寧夏]]で発生した[[朱寘鐇]]による[[安化王の乱]]も、劉瑾の排除をその反乱理由に掲げている。
 
正徳帝の寵愛を失った後に粛清されることを恐れた劉瑾は、この年、宦官では初となる帝位の簒奪を企てるが、「八虎」の成員一人である{{仮リンク|張永|zh|张永 (明朝宦官)}}の密告により逮凌遅刑(寸磔)に処せられた。この3357刀に及ぶ凌遅刑の様子は刑務官であった[[張文麟]]によって詳細に記されている。
 
劉瑾の財産は処刑後に没収されたが、『[[二十二史箚記]]』によれば、没収財産は金250万両、銀5,000万両、その他無数の珍宝があり、当時の明歳入の10年分に相当するものであった。
 
== 関連作品 ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りゆう きん}}
[[Category:明代の人物]]
[[Category:中国の宦官]]
[[Category:明代の人物]]
[[Category:咸陽出身の人物]]
[[Category:刑死した中国の人物]]