「竇建徳」の版間の差分
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現在の河北省[[邯鄲市]][[永年区]])に遷都した。
五鳳2年([[619年]])、[[王世充]]が[[恭帝侗|楊侗]]を廃し皇帝を自称すると、竇建徳もまた朝廷を整備していく(ただし夏王の称号を使用)。五鳳4年([[621年]])、唐の[[太宗 (唐)|李世民]]が王世充の拠点である[[洛陽]]を攻撃すると、王世充の要請を容れて竇建徳も出兵するが、[[虎牢
竇建徳の処刑により、夏の残存勢力を中心として盟友の[[劉黒闥]]が自立し、河北の混乱が続くこととなった。
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