「カルロ・エマヌエーレ2世」の版間の差分

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サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]と[[クリスティーヌ・ド・フランス|マリーア・クリスティーナ]](フランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘)の子として、[[トリノ]]で生まれた。公位を継承していた兄[[フランチェスコ・ジャチント・ディ・サヴォイア|フランチェスコ・ジャチント]]が6歳で夭逝したため、母が引き続き摂政を務める下、4歳で公位を継承した。
 
カルロ・エマヌエーレは[[1655年]]の大虐殺で頂点に達した[[ヴァルド派]]の迫害で悪名が高くなった。これが非常に残忍な虐殺であったので、[[ジョン・ミルトン]]に[[ソネット]]「ピエモンテの虐殺」(''[[:en:On the Late Massacre in Piedmont|On the Late Massacre in Piedmont]]'')を書かせることになった。[[オリバー・クロムウェル]]はワルドー派を助けるために[[イングランド共和国|イングランド]]軍の派遣を提案した。ミルトンから任された[[サミュエル・モーランド]]は後に「ピエモンテ渓谷の福音主義教会の歴史」(''The History of the Evangelical Churches of the Valleys of Piemont'', 1658年)を書いた。
 
== 家族 ==