「松平忠和 (桑名藩主)」の版間の差分

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松平忠和のテリアカの研究に関する記事を挿入
「蘭学者相撲見立番付」を記載
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[[宝暦]]9年([[1759年]])8月27日、[[紀州藩]]7代藩主・[[徳川宗将]]の九男として[[江戸]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の紀州藩邸にて誕生した。幼少時から部屋住みの身分であったが、この時期に[[松平定信]]と交遊しており、定信は忠和の力量を見抜き、後に自著で「'''英雄なり。学問も広く給ひ、[[天文学|天文暦学]]は殊に勝れてぞ聞ゆれ'''」と記している。
 
蘭学者[[前野良沢]]・[[桂川甫周]]<ref>{{Cite web |url=https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i05/i05_01646/i05_01646_0010/i05_01646_0010_p1004.jpg |title=「蘭学者相撲見立番付」大槻玄沢の塾芝蘭堂のオランダ正月で配布された。行事の蘭に桑名候の字が見える。 |access-date=2022年6月24日 |publisher=早稲田大学古典籍総合データベース}}</ref>の弟子として西洋の薬「テリアカ」のオランダ語の文献の翻訳や「火浣布(石綿)」のオランダ語の文献の翻訳に取り組んだ。
 
[[森島中良]]『紅毛雑話』には、鳳翔公子こと後の松平忠和が竹筒と徳利でエレキテルを製作し、森島中良の実兄・桂川甫周に自慢したという記録がある。