「安井知哲」の版間の差分

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==生涯==
[[山城国]]の生まれ。幼名は小三郎。少年時の[[明暦]]3年(1657年)などに父の算知、[[渋川春海|安井算哲(渋川春海)]]らとともに[[鹿苑寺]]に招かれる他、[[万治]]4年(16811661年)には[[御所|仙洞御所]]で[[後水尾法皇]]に対局を上覧した(「[[隔蓂記]]」、知哲先で算哲勝)。[[寛文]]7年(1667年)に、道策とともに[[御城碁]]初出仕。[[延宝]]3年(1675年)に算知が[[本因坊算悦]]との争碁を20番で打ち止め[[碁所]]を返上、[[元禄]]10年(1697年)に隠居して知哲が安井家当主となる。元禄13年に病没。元禄5年(1692年)に跡目としていた[[安井仙角]]を跡目としており、元禄13年に病没後に仙角が安井家4世となった。
 
==対局譜==
道策とは御城碁初出仕時の対局を含め48局の棋譜を遺しており、道策の対戦相手としてはもっとも多。当初は1歳年下の道策[[定先]]だったが、6番手直り5度の30局で知哲二子となり、二子番26局で知哲1番勝ち越し、最終的には先二の手合となった。寛文10年(1670年)の知哲先番中押勝の碁は、知哲の傑作譜とされる。
 
他に[[本因坊道悦]]、[[井上道砂因碩]]、[[井上道節因碩]]、[[星合八碩]]、[[本因坊道知策元]]、[[本因坊策元道知]]、[[林玄悦]]との棋譜が遺されている。御城碁では、道策に先で1勝1敗、道的と互戦で2敗、道節に白で1勝1敗など。
 
漫画「[[ヒカルの碁]]」において佐為-菅原顕忠戦の棋譜は、寛文9年10月14日の知哲(先)-道策戦が使われた。