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{{出典の明記|date=2013年10月}}
『'''山槐記'''』(さんかいき)は、[[中山忠親]]の[[日記]]。中山忠親は[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の[[公卿]]で内大臣を務めた人物で、書名の「山槐」とは忠親の[[家号]]「中山」と、大臣家の唐名(槐門)を合わせたものに由来する。現存する伝文によれば、記載時期は[[仁平]]元年([[1151年]])から[[建久]]5年([[1194年]])までの40年間あまりである。詳細な記事が多いが、欠失部分も少なくない。
忠親は[[後白河天皇|後白河院]]や[[源頼朝]]に重用され、日記の現存期間は平氏の興隆から全盛、滅亡の時期にあたる。[[平氏政権]]時代から[[治承・寿永の乱]]での東国情勢などについて独自の記事も多く、重要史料として扱われている。[[保元の乱]]・[[平治の乱]]の記事は欠けているが、[[治承]]2年([[1178年]])の[[安徳天皇]]誕生、同4年([[1180年]])の即位、[[元暦]]元年([[1184年]])の[[後鳥羽天皇]]の即位と大嘗会の記事は緻密で、忠親が朝儀や政界の情勢に通じていたことが分かる。
[[平重盛]]の出家、[[平清盛|清盛]]による大輪田泊の改修、[[以仁王の挙兵]]、[[富士川の戦い]]などにおいて、『[[平家物語]]』や『[[源平盛衰記]]』などの[[軍記物語]]とは異なる記述があり、史実との相違を示している。
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