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成公35年([[紀元前600年|前600年]])10月、成公が[[薨去]]したため、子の姫遫(以降は穆公と表記)が立って衛君となった。
 
穆公元年([[紀元前599年|前599年]])4月、[[斉 (春秋)|斉]]の[[崔杼]](さいちょ)が国を追い出されて衛に亡命してきた。6月、[[晋 (春秋)|晋]]・[[宋 (春秋)|宋]]・衛・[[曹 (春秋)|曹]]の4カ国連合軍は[[鄭]]を攻撃した。
 
穆公2年([[紀元前598年|前598年]])10月、[[楚 (春秋)|楚]]の[[荘王 (楚)|荘王]]が[[陳 (春秋)|陳]]を撃ち、[[簒奪]]者である[[夏徴舒]]を殺した。
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穆公3年([[紀元前597年|前597年]])春、楚の荘王が鄭の都城を包囲した。鄭が降伏すると楚はこれを許した。12月、晋・宋・衛・曹の要人たちが清丘(衛の地)で同盟を結んだ。このとき衛からは[[孔達]]が出席した。その後、宋はこの盟約をたてに陳を攻撃したが、衛の孔達が「陳の先君との約束がある」と、盟約を破って陳を助けてしまう。
 
穆公4年([[紀元前596年|前596年]])冬、前年に孔達が盟約を破ったため、晋は衛に軍隊を差し向けた。これにより穆公5年([[紀元前595年|前595年]])春、衛は孔達を処刑した。
 
穆公8年([[紀元前592年|前592年]])6月、穆公は晋・曹・[[魯]]・[[邾]]の君主たちと断道(晋の地)で同盟を結んだ。
 
穆公11年([[紀元前589年|前589年]])4月、衛の大夫である[[孫良夫]]は斉の侵攻を受けた魯を救うため、新築(衛の地)で斉軍と戦ったが大敗した。そこで6月、魯から援軍として[[季孫行父]]・[[臧許]]・[[叔孫僑如]]・[[叔嬰斉]]らが派遣された。季孫行父らは晋の[[郤克]]・曹の公子首と合流して鞍(斉の地)で斉軍を大破し({{仮リンク|鞍の戦い|zh|鞌之戰}})、魯が侵略された土地を取り返した。8月、穆侯が薨去し、子の姫臧が立って衛公([[定公 (衛)|定公]])となった。
 
== 参考資料 ==