「木山正親」の版間の差分

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[[ファイル:仏木坂の戦い古戦場.jpg|サムネイル|仏木坂の戦い古戦場]]
 
天正17年(1589年)、[[豊臣秀吉]]によって九州が平定された後、[[小西氏]]の与力とされていた天草衆(天草五人衆)が、[[小西行長]]の築城[[普請]]を拒否するという事態が発生し、[[加藤清正]]・[[小西行長]]らの討伐軍が攻め寄せると、正親は[[志岐麟泉]]と共に[[本渡城]]を拠点にこれを迎え撃った。ところが、麟泉は討伐軍の兵力の多さの前に戦意を喪失し、戦わずして撤退すると、正親は一戦も交えずして退却はできぬと、兵500を率いて清正の軍に早朝、奇襲をかけた。正親は単騎で敵将・清正を求めて、敵中深く突入し、清正を見つけると[[一騎討ち]]を挑んだと伝わる。これにより、正親は死亡した
 
:なお、一騎討ちの経緯はいくつか説がある。正親は清正を組み敷き首級を挙げんというところまで追い詰めたものの、[[主君]]危うしと駆けつけた正親の家来に「下か上か」と訪ねられ、どもり癖のあった正親より先に清正が「下だ!」と叫んだために、誤って[[家臣団|家臣]]の[[槍]]にかかり死亡したという説と、清正が「[[太刀]]で戦おう」と槍を捨て正親に呼びかけ、決闘に応じた正親が弓を置くと、清正はすかさず槍を拾い、正親を討ち取ったという説がある。
 
その後、正親の子である[[横手五郎]]は清正の[[暗殺]]を計画したが、清正の配下に正親の子と見破られ、そのまま殺された。その母親であり正親の妻である{{仮リンク|お京の方|en|Okyō}}は[[敵討]]のため、正親の[[甲冑]]を着て[[男装]]して清正に挑んだが、虚しくも男装を見破られ殺された。地元の伝承ではお京は梅の木の根に足を取られて転倒し敗北したため、この梅の木を呪い、以降、花も実もつけなくなったと伝わる
 
[[ファイル:木山弾正の墓.jpg|サムネイル|木山弾正の墓]]
 
 
{{DEFAULTSORT:きやま まさちか}}