「ヘルムート・ニュートン」の版間の差分

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[[1938年]]ドイツを離れ、[[シンガポール]]で短期間ストレーツ・タイムズ社の写真家として働く。[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]]から[[1945年]]まで、オーストラリア軍で軍務に就き、輸送隊に所属した。
 
[[1948年]][[オーストラリア]]の女優ジューン・ブラネルと結婚。戦後、フリーランサーのカメラマンになり、彼の作品は[[プレイボーイPLAYBOY]]誌を始めとする[[雑誌]]に載るようになる。[[1950年代]]の終わりから、世間の風潮を鋭く捉えた写真を専門とするようになる。
 
[[1961年]]に[[パリ]]に住まいを移し、カメラマンとして広範囲な仕事を開始する。ニュートンは、「[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]」を始めとする[[フランス]]の雑誌に作品を載せる。ニュートンは、しばしば[[サディズム]]、[[マゾヒズム]]と[[フェティシズム]]をともなった[[エロチック]]な型式美による場面構成で特徴づけられた特別のスタイルを確立した。[[1970年]]心臓発作に襲われるが、精力的に仕事を広げていった。彼の作品に対する評判(それは、しばしば悪評を伴ったが)は、高度な技術的視点によって補完されるに十分なものであった。[[1980年代]]の「ビッグ・ヌード」"Big Nudes" シリーズは、彼のエロチックな都市のスタイルというテーマが頂点に達した作品として特筆される。