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[[孝荘帝]]が即位すると、子鵠は平北将軍・[[晋州]]刺史に任ぜられ、永安県開国伯に封ぜられ、尚書行台を兼ねた。[[529年]]、[[元顥]]が洛陽に入ると、[[薛修義]]と陳双熾らが元顥の下について晋州城を攻撃してきた。子鵠は城を出て戦い、薛修義らを破った。功績により撫軍将軍に任ぜられた。間もなく召還されて都官尚書・[[荊州]]大中正に任ぜられた。後に右僕射を兼ね、行台となり、[[賈顕智]]らを率いて呂文欣を[[邳州|東徐州]]で討って平定した。帰還すると、車騎将軍・左光禄大夫の位を受け、南陽郡開国公に封ぜられた。尚書のまま、仮の驃騎大将軍となり、都督を務めた。爾朱栄は[[太原市|晋陽]]にいたので、洛陽のことは、子鵠に委ねられた。後に散騎常侍・[[殷州 (北魏)|殷州]]刺史に任ぜられて出向した。旱害が起こったので、子鵠は民衆が流亡するのを恐れて、貧者に穀物を貸し与え、人や牛を労働力として派遣して、殷州の安定を維持した。
 
[[530年]]、爾朱栄が殺害されると、[[爾朱世隆]]らが信書を送って子鵠を招いたが、子鵠は従わなかった。子鵠の母が晋陽にいたため、子鵠は彼女を河南に移すよう爾朱氏に要求した。孝荘帝は子鵠の態度を賞賛して、車騎大将軍・[[豫州]]刺史・仮驃騎大将軍・都督二豫郢三州諸軍事に任じ、尚書右僕射・二豫郢潁四州行台を兼ねさせた。子鵠が[[汲郡]]にいたとき、[[爾朱兆]]が洛陽に入ったことを聞くと、[[黄河]]を渡って[[爾朱仲遠]]と面会した。爾朱仲遠は子鵠を汲郡に駐屯させた。爾朱兆は子鵠を洛陽に召し出すと、かつて爾朱氏にさからったことを責め、その部衆を奪って晋陽に送ろうとした。ときに[[紇豆陵歩藩]]の乱が起こったので、子鵠は都督となり、食糧や武器を徴発した。侍中・御史中尉・中軍大都督となり、[[元曄]]に従って洛陽に向かった。
 
[[532年]]、尚書左僕射・東南道大行台を兼ね、爾朱仲遠を追討した。爾朱仲遠が[[梁 (南朝)|南朝梁]]に亡命すると、子鵠はその兵員や武器を収容した。ときに南朝梁の[[蕭衍|武帝]]が[[元樹]]を派遣して北魏に侵入させ、譙城を落とした。子鵠は元樹を攻撃して破り、譙城を包囲した。儀同三司の位を加えられた。兵を分遣して南朝梁の苞州・然州・宕州・大澗・蒙県の5つの城を落とすと、元樹は孤立無援となった。子鵠は人を派遣して元樹を説得し、帰国を許す盟約を結んで譙城を明け渡させた。元樹の兵の半数が退出したとき、子鵠は攻撃をしかけ、元樹と南朝梁の[[譙州]]刺史の朱文開を捕らえた。凱旋すると、吏部尚書となり、尚書右僕射に転じた。間もなく驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられた。