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慶長14年([[1609年]])、仕置奉行の岡重政と蒲生郷成が対立し、家中は岡重政・蒲生郷貞・外池良重らの派閥と蒲生郷成・関元吉・小倉良清の派閥に分かれて争った。折しも家中では郷成の所領における検地が決定され、また家中の訴訟で秀行が関に敗訴を言い渡したことをきっかけにして、小倉と関が出奔し、苦境に陥った郷成も2人の息子を連れて出奔した。郷成の2人の息子は[[藤堂高虎]]に仕官したが、郷成は[[徳川家康]]のいる駿府に移ったと言われている<ref>尾下(谷)、2021年、P229-230.</ref>。
 
慶長17年([[1612年]])に秀行が30歳で没し、その後継者に秀行と[[正清院|振姫]]の嫡子である[[蒲生忠郷|忠郷]]が家督を継承するが、忠郷は相続時わずか10歳のため、母親の振姫が後見人となって藩政を見ることになった。やがて後見人の振姫と仕置奉行の岡は前年に起きた大地震後の施政で激しく対立する。信心深かった振姫は神社仏閣の復興を最優先に進めようとしたが、重政がこれに対し民衆の救済が先で神社仏閣の復興にすぐ予算は付けられないと拒否したためであった。振姫は父[[徳川家康]]にこの問題を訴え、慶長18年(1613年)に家康の命令で重政は[[駿府城]]に召還され、死罪を命じられた<ref>尾下(谷)、2021年、P231・256.</ref>。徳川家康・[[徳川秀忠|秀忠]]父子は振姫にも[[浅野長晟]]との再婚を命じて蒲生家から引き離す<ref>尾下(谷)、2021年、P236.</ref>一方、残された仕置の玉井貞右と[[町野幸和]](繁仍の子)に法度を示して検使(後世の史料では「国目付」と呼ぶ)を下向させるなどして藩政の立て直しを図っている<ref>尾下(谷)、2021年、P234-236.</ref>。
 
息子の吉右衛門は同僚の町野幸和の庇護を受け、その娘を娶り、於振([[自証院]])を生んだ。於振は[[春日局]]の養女となり、[[江戸幕府]]の第3代[[征夷大将軍]]・[[徳川家光]]の[[側室]]として長女の千代姫([[霊仙院]])を生み、この血統は[[皇室]]などに現在まで存続している。