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1915年、匡互生は北京高等師範学校の予備校に入学し、翌年、彼は数理学部に合格した。在学中、[[周予同]]、[[劉薰宇]]、[[周為群]]などの同級生とともに「同言社」を創立した。のち「工学会」と改名。匡互生は [[新青年 (中国)|「新青年]]」に掲載された[[李大釗|李大釗の]]記事「庶民の勝利」などを読み、「若者の眠りを目覚めさせる朝の鐘」と称賛した{{R|fh}}。
 
[[1919年]][[パリ講和会議|、パリ講和会議]]の[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ条約]]の結果に不満を抱き、北京の学生たちは、抗議するためにデモを行うことを決定した。匡互生は国のために死ぬことを覚悟し、遺書を書いた。北京の学生数千人が1919年[[5月4日]]、[[天安門広場]]からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求して[[デモンストレーション|デモ行進]]をした。匡互生は学生運動の最前線に立ち、[[曹汝霖|曹汝霖の家に入り、そこで警備している警察]]に学生運動の正当性を説得した<ref>世良正浩「匡互生ーその生涯と教育実践ー」(『明治学院論叢』 (410)、1987年3月、81〜94頁)</ref>
 
1919年の夏、匡互生は北京高等師範学校を卒業し、長沙に戻って楚怡小学校で教鞭を取った。当時の湖南省はでは、軍閥を倒すための駆張運動が行われていた。その中で、[[毛沢東|毛沢東と共に駆張運動の宣言を起草した。]] 1920年、匡互生はコナン第一師範学校の教務学長を務め、毛沢東を教員として破格に採用した。彼はまた、[[毛沢東|毛沢東らと共に]]湖南学生自治会と労働組合を組織した{{R|fh}}。
 
1921年、政治活動から離れて、日本の「[[新しき村|新しき村」運動]]から影響を受け、江蘇省の宜興市の田舎で平民学校を設立した。しかし、学校を運営する経費が足りないため、1923年に閉校。
 
1924年、匡互生は[[浙江省]][[上虞区|]]春暉中学校に転勤したが、教育理念改革という主張のため学校内の守旧派と対立し、のち辞任した。1925年、教育改革を目指す匡互生は、[[上海市|豊子愷]]、朱光潜ら同人とともに、上海で「立達中学」を創立し、のち「立達学園」と改名。]]「立達」は『論語』の「己欲立而立人,己欲達而達人」による。匡の教育理念では、教育者の責任は、教育を受けた人々に主体性を発揮し、自由に成長させることである。また彼は、学校は教育の工場ではなく、教育者は園芸家のように、「害虫を取り除き、肥料を与え、自然の環境の中で花を自主的に成長させる」べきだという教育理念を唱えている。そのため、立達中学は「立達学園」と改名された。<ref>{{Cite book|和書|title=劉晨『立達学園史論』|date=2009年|publisher=団結出版社|page=35〜36}}</ref>
 
1929年、立達学園では、[[ニワトリ|鶏]][[ミツバチ|の飼育、]]養蜂し、園芸を中心とする農村教育科目が設置されるようになった。そのほか、エスペラント、[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[社会学]]、実践倫理の課程も追加された。1932年、一・二八事件で立達学園の校舎は全滅されたが、匡互生は希望を諦めず、校舎を再建するために奔走した。同年の秋に授業は再開できた{{R|fh}}。
 
1933年4月22日、匡は学園復興に奔走するなかで病に倒れて42歳で亡くなった{{R|fh}}。人格教育に尽力した匡は、教育界の同人や学生に評価されている<ref>{{Cite book|和書|title=北京師範大学編『匡互生と立達学園ー教育思想教学実践研究』|year=1993年|publisher=北京師範大学}}</ref>。そのなかで、巴金は、「彼は理想を持ち行動力に溢れる教育者であり、国と国民のために貢献した教育者だった。 私の進むべき道を照らしてくれる光だ」<ref>{{Cite book|和書|title=巴金「懐念匡互生先生」(北京師範大学編『匡互生与立達学園』に収録)|year=1988年(執筆)|publisher=北京師範大学}}</ref>と評価している。
1933年の4月22日、匡互生は病気で亡くなった{{R|fh}}。
 
== 参照 ==