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6年の潜伏の後、嘉禄3年(1227年)京において謀反を計画しているところを発見され、[[六波羅探題]]・[[北条時氏]]の近習・[[菅周則|菅十郎左衛門周則]]や、御家人の[[小笠原長経]]によって捕縛された{{Sfn|森|2005|}}。逮捕される時、抵抗して武士2人に傷を与えた挙句、自殺を図ったという(『[[吾妻鏡]]』安貞元年6月14日条)。だが死に切れぬまま、逮捕されて車に乗せて六波羅に担ぎ込まれ{{Sfn|高橋|2013|p=8}}、六波羅で誅殺された(一説に自害したとも、傷により死亡したともいわれる)。
 
『[[明月記]]』によると、捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたといい、探題の時氏・[[北条時盛|時盛]]らを驚愕させたという(『明月記』安貞元年6月11日条)。3年前の[[北条義時]]の死が妻の[[伊賀の方]]による毒殺であったとの発言であり、これを義時死後に起こった[[伊賀氏の変]]で尊長の異母弟[[一条実雅]]が将軍候補とされたことと関連づけて語る見解がある。[[平泉澄]]は『[[百錬抄]]』において義時が急死したとされていることなどから、尊長の証言には信憑性があり、毒殺されたのではないかという説を唱えた{{Sfn|山本みなみ|2020|p=2}}。また[[石井進]]や[[上横手雅敬]]も平泉の見解を先行研究としては取り上げないものの、『明月記』の記述には真実を伝える物があると見ている{{Sfn|山本みなみ|2020|p=2}}。一方、[[山本みなみ]]は『[[湛睿説草]]』に収録された義時四十九日法要の際の表白で、義時が日頃から脚気と暑気あたりによって衰弱していたことを指摘し、義時の死因は病死であるている{{Sfn|山本みなみ|2020|p=5-6}}、尊長の発言は自暴自棄になったための発言であるため信憑性は薄く、尊長と実雅は承久の乱では敵味方に分かれており、また伊賀の方の兄[[伊賀光季]]は京方に討たれているため、実雅や伊賀の方と尊長が連絡を取り合ったとは考え難く、死を前にした尊長の虚言であるとしている<ref>[[山本みなみ]]『史伝 北条義時』小学館、2021年、250-256頁。</ref>
 
== 脚注 ==