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1906年、この新聞は世界初の[[ドーバー海峡#航空機による横断|英仏海峡横断飛行]]に対して1,000[[スターリング・ポンド|ポンド]]、[[1910年のロンドン・マンチェスター間エアレース|ロンドン - マンチェスター間の飛行]]に対して10,000ポンドの賞金を出す。1910年にどちらの飛行も成功し、賞金が支払われた(ロンドン・マンチェスター間についての詳細は、同記事を参照されたい)。
 
この新聞は[[ドイツ帝国]]が[[イギリス帝国|大英帝国]]に戦争を仕掛ける計画を進めているという記事を載せた。その結果、[[第一次世界大戦]]勃発の後、戦争を招いたとして批判される。大戦が勃発した際は、アルフレッドが徴兵制導入を主張して論争を引き起こした。また、1915年5月21日には英雄と考えられていた当時の陸軍大臣[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|キッチナー]]に関してこの新聞は辛辣な批判記事を載せたため、一晩で発行部数が138.6万部から23.8万部まで落ちた。株式市場ロンドン証券取引所の会員1500人が売れ残りの新聞を燃やして抗議し、ボイコットを始める。当時の首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]は「わが国を破壊する新聞である」と非難した。
 
キッチナーが死去した際、この新聞はその死を大英帝国の幸運と評した。この新聞はその後、アスキス首相の批判運動を繰り広げ、1916年12月に首相は辞任する。後任の[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド=ジョージ]]首相はアルフレッドの政府批判をかわすため、彼に入閣を要請するが断られている。