「ロバート・サットン (第2代レキシントン男爵)」の版間の差分

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1692年3月17日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="Cokayne" />。同1692年夏に[[アン (イギリス女王)|アン王女]]の宮廷に随行したが、マールバラ伯爵夫人[[サラ・ジェニングス|サラ・チャーチル]]がアンの宮廷を支配するようになると追い出された<ref name="HOL" />。また同年にカンバーランド公ジョージの主馬頭を解任されたが、その補償としてウィリアム3世の{{仮リンク|寝室侍従 (ジェントルマン・オブ・ザ・ベッドチェンバー)|en|Gentleman of the Bedchamber|label=寝室侍従}}に任命され<ref name="HOL" />、1702年までを務めた<ref name="Cokayne" />。同年にも国務大臣、国王私室財務官、[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]の会計長官など官職就任の噂が流れたが、いずれも実現に至らなかった<ref name="HOL" />。
 
1693年5月に志願兵として[[フランドル]]に向かい、8月に[[ハンブルク]]に派遣されて[[ザクセン=ラウエンブルク]]の継承問題交渉に参加した後、一旦帰国して<ref name="HOL" />、1694年4月から1697年12月まで[[ウィーン]]駐在特命全権公使を務め<ref name="Cokayne" />、[[レイスウェイク条約]]が締結されたときのウィーン駐在公使であった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Lexington, Baron|volume=16|page=526}}</ref>(ただし、1696年に交渉が始まった時点ではレキシントンがレイスウェイクでの交渉役に指名されておらず、1697年1月にようやく指名を受けたが、実際の交渉に加わずウィーンに残る予定だったという<ref name="HOL" />)。1698年初に帰国した後、フランス駐在大使、[[コンスタンティノープル]]駐在大使への任命の噂が流れたが、最終的には7月にドイツ諸侯を担当する大使になり、9月にオランダに向かった後翌年初までに帰国した<ref name="HOL" />。1699年6月より下級商務卿({{lang|en|Lord of Trade}})を務め<ref name="Cokayne" />、1700年夏に再び国務大臣就任の噂が流れたが、今度も実現しなかった<ref name="HOL" />。しかし、この頃より徐々に引退を進めることになり<ref group="注">理由には財政難と健康上の問題が挙げられる。</ref>、アン王女が女王に即位すると1702年5月に下級商務卿からも辞任した<ref name="HOL" />。
 
=== アン女王の治世 ===
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1714年に再婚する噂が流れたが、実際に再婚することはなかった<ref name="HOL" />。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
== 出典 ==
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{{Authority control}}
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[[Category:1662年生]]